Under the hazymoon

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『易筋経』における筋(すじ)の鍛錬過程

李先生によれば、『易筋経』には、筋(すじ)を具体的にどう鍛えればよいのか、その道筋が示されているとのことです。それは概略以下のようなものです。

靡←→弱



長(展)

勁(強)

“靡”の状態は、どんよりと曇った天気を想像するとよいそうです。雨が降っているわけではないから悪い天気とはいえず、かといって雨が今にも振りそうだから良い天気ともいえない、そんな状態です。
人間もしばしばそんな状態にあります。とりたてて元気があるわけではないが、かといって寝込んでしまうほどでもない、疲れたようなそうでないような状態です。ここで、きちんと身体を動かすかどうかが、健康かどうかの分かれ道になるそうです。何もしなければ、“弱”って身体を悪くします。そこで休めば何とかまた“靡”まで戻りますが、またしばらくすると“弱”ってしまい、の繰り返し。

そこで筋を鍛えて健康になろうとするわけですが、まずそこで大切なのが、身体を部分部分で動かしたりせずまとまって動くようにすること、“和”の状態を目指すことです。何故なら筋は身体の各部分をつなげているからです。身体をまとめて動かすということは筋を使うことにつながるということです。
それができたら次に筋を“長”く展開させます。筋肉を使って力を入れて強く動くのではなく、ストレッチのようにとにかく大きく伸ばすようにします。

筋がしっかりのびれば、気血もよくめぐるようになります。関節部分が縮んだままだと、そこで気血の流れが止まってしまうからです。そして気血がめぐるようになれば、筋に栄養がしっかり運ばれ筋が成長し、“強”い筋が鍛えられるとのことです。
単純にただ力まかせに鍛えても、かえって全体のバランスを崩すために、筋を強くすることが難しくなるそうです。力を得るためにはいったん捨てなければならないわけです。

武術の理想の境地を、「視之如婦。攻之如虎。」(見た目は女性のよう、戦うときは虎のよう)と表現することがあります。見た目がいかつい人間は、かえってそれに見合うだけの攻撃力を持っていない。これを『易筋経』の立場で解釈すれば、いかにも力があって強く見えるのは、腕など身体の部分部分に力が分断されているがために目立つからで、分断された分だけ力は弱いことになります。しかし身体が一つにつながり気血がとどまることなく巡っていれば、身体は血行がよく若い娘のように生き生きとしてみえる。そういう身体の方が本当の力を出せるのだそうです。

八卦掌の八卦は空間ではなく時間を示すこと

ワン ユージエ師(正体がばれないよう漢字は当てない)が僕に問いかけた。
「君の武術の師匠は、八卦掌の八卦という言葉自体には方向を示したりする上で、特別な意味はない、と教えているそうだね?」
「はい、李先生は、乾がどっちの方角だとか、一周を八卦に合わせて八歩で歩けとか、そういうことは言われないですね。」
「うむ、それは正しい。というのも、八卦掌の八卦は、本来空間を指示するものではなかったのだよ。」
「空間ではない。。。では、時間ということでしょうか?」
「うむ、なかなか分かってきているな。そう、修行における季節の重要性なのだ。日本の江戸?時代だったか、有名な禅僧の話をこのあいだしていたろう?」
白隠禅師ですね。夜船閑話に八卦と気の消長について書かれた部分があります。。。あれ、忘れてきちゃった。代わりに『近世畸人伝』の白幽子の条を参照しましょう。現行の閑話とは文字の異同がありますが。ええと、

五陰上に居り、一陽下を占む。是を地雷復といふ。冬至の侯也。真人の息は踵を以てするの謂、三陽下に位し、三陰上に居す。是を地天泰といふ。孟正の侯也。天之を得れば。則万物発生の気を含み、百草春化の沢を受く。至人、元気を下に充たしむるの象。人、是を得れば、営衞充塞、気力勇壮也。之に反する則は五陰下に居り、一陽上に止る。是を山地剥といふ。九月の侯にして、天人ともに枯槁揺落の象也。かかれば真気を臍輪丹田に蔵し、歳月を重て、守一無適なれば、長生久視の神仙なるべし。浩然の気を養ふといふも亦是也

となっています。」
「そうそう、この地天泰の象が上虚下実の理想を表すものなのだ。しかし間違えてはいかんぞ。この象だけが大切なら八卦掌とは言わない。それに第一、道教の理想は純陽の体、乾卦だな、それを目指して陰の気を消し去ることだろう?」
「確かに先生のおっしゃる通りですね。何故だろう。。。」
「変化だよ。そのまま神仙にでもなって飛び去ってしまえるのならいいが、なかなか無理な話だ。いいか、一年を通じて陽の気は増減する、これは自然の摂理で誰も逆らえない。そこで、その変化に合わせて、その時々に修行の方法やテーマを変える。自然に逆らわなければ、自分が持ち合わせている気を疲弊させずにすむ。それでようやく気を貯めることができる。稼いだ端から使っておっては何も貯まらないだろう?全体の流れを知らないといかん。地天泰はその気の流れ、変化に対応できる。陰陽半々だからな。安定した理想の状態とは、動的な平衡の実現なんだよ。」
「循環と変化ですね。白隠より後の佐藤一斎も同じようなこと書いていたような。」
「そうだろう、そうだろう。」
「李先生も練習において季節や気候の変化をすごく重視されています。」
「さすがだな。君もそれだけ理解がすすんでいれば、次の口訣を授けてもいいだろう。いいか。。。」
「こうですか?」
「ちがう、ちがう」
(続く)

郭沫若と静坐(2):スピノザ、荘子、王陽明

当時を振り返って書かれた自伝の中で、郭沫若は静坐の実践は伝統的に荘子から王陽明へと受け継がれてきたものだという認識を示しながら、それがスピノザの汎神論と同内容であることを述べています。

……私はある時期王陽明の崇拜者だったことがあった。それは一九一五年から一九一七年にかけて私が岡山の第六高等学校で学んでいた時期のことだった。そのころは汎神論の思想に染まっていたので、スピノザゲーテを崇拝しており、タゴールの詩を耽読し、中国の古人の中では荘子王陽明を崇拝していた。
 荘子の思想は一般には虚無主義と考えられているが、私は彼をスピノザときわめて近いと思う。彼は宇宙万物を一つの実在する本体のあらわれと考える。人はこの本体を体験し、万物を一体と見なし、個体の私欲私念を排除すべきである。これによって生命を養えば平静たりえ、これによって政治を行えば争乱がない、というのである。彼はむしろ宇宙主義者ということができる。そして彼の文筆は、私の見るところによれば、中国の古文中で古今独歩のものである。王陽明の思想は禅理を本質として儒家の衣裳をまとっているけれども、実は荘子と異なるところはない。彼は荘子の本体、いわゆる「道」を、「良知」と命名し、一方では静座を主張して、「良知」の体験を求め、一方では実践を主張して、知行合一の生活を求める。その出発点に問題はあるにしても、彼の「事において錬磨する」という主張は、一切の玄学家(一種の神秘主義的空論家)の歪曲を救うに十分である。そして彼自身の実践、昔のいわゆる「経論」も、まさしく彼の学説の保証である。私は当時静座を学び、彼の「伝習録」と詩を耽読したものだった。のちには捨ててしまったが、私の彼に対する崇拜は依然として断ち切れていない。彼は何といってもわが民族の発展における一人の傑作たるを失わない、と私は信じている。(郭沫若『続創造十年』、平凡社東洋文庫、1969年、pp.18-19。)

郭沫若にとって、静坐の実践は東西を結ぶものであり、古今を繋ぐものであったというわけです。続きます。

創造十年 続 他―郭沫若自伝 3 (東洋文庫 (153))

創造十年 続 他―郭沫若自伝 3 (東洋文庫 (153))

井上哲次郎は静坐をしたか?(1)

井上哲次郎『人格と修養』(廣文堂書店、1915年*1)は若者に対して修養の重要性を説いた本ですが、では具体的にどのような技法によれば修養を成し遂げられると考えていたかといえば、どうも抽象的な議論に終始し、所謂“修身”のごとき精神論が議論の中心になっています。
例えば、「人間の本性と修養」一章などでは、性欲の節制を前提にしない道徳などあり得ないという、ド直球の論理を展開しています。しかしそこで修養法として示すのは、生活習慣の改善とか心構えのありかたとかそういったもので、身体技法的な何かは志向されていないのです。
貝原益軒について一章を設け、「衛生と道徳」一章で身体的な健康が精神的な健康の基盤であることを言いながらも、『養生訓』まで引いておきながら、しかし静坐や呼吸法によって精神や肉体の安寧を目指すといったようなことを語ったりしないのです。釈宗演×鈴木大拙が『静坐のすすめ』で瞑想の実践を青少年に説いたことときわめて対称的と言えるでしょう。
同書で唯一身体技法として解釈できるのは、「青年学生勉強法(其三)」*2でしょうか。第一節として「読書よりも先づ形を正せ」とし、次のように述べています。

殊に自分の修養に関して、聖賢の言行を讀誦する場合の如きは、正心端坐するにあらずんば、彼我の精神交通して、十分に会得することは覚束ないのである。斯かる場合に自分の姿勢態度を正しくしなかったならば、身心共に其読む事柄に適応しないが為に、頗る其了解を妨げるのである。

続いて木下順庵の例を出しているように、ここで語られている読書を通じた聖人との交感を目指すような読書法は、儒者による経典の読書法そのままです。儒者が行う読書法は静坐とつながる瞑想的な技法でもありましたが、同書の範囲では、井上哲次郎自身は静坐を修養の技法として問題にしていません。

安岡正篤と静坐(1):柳田誠二郎との関係

安岡正篤の思想の実践性のうち、身体技法の方面に関して、その具体的な内容は不勉強にして知らず、その著作や関連資料から探る試みをようやく始めたところです。とりあえず『安岡正篤とその弟子』に収録されている「朋友・安岡正篤を偲ぶ」と題された座談会記録は重要な傍証になると思います。というのも、話者の一人に、岡田式静坐法の実践者として知られる柳田誠二郎(日本航空相談役)がいるからです。なお、他の話者は、江戸英雄(三井不動産会長)、大槻文平(三菱鉱業セメント会長)、前原達一(岩崎電気相談役)。柳田と安岡との関係は、「二・二六事件のずっと前から安岡先生の話は聞いていた。最初は「いかにして革命思想に勝利するか」という題のお話だった。そのあと海外出張に行ったら、ロンドンに安岡先生が来ているんですよ。……その時、近しく知り合いになった」とのことです*1

さて、身体技法に関連した思い出として、柳田は次のように語っています。

本誌 柳田さんが、安岡先生から、人は背中を見れば人柄がわかるんだというようなことを教わったとおっしゃいましたが。

柳田 うん。先生は人相とか姿勢とか中国の考え方を受けて、そういうことには非常な興味を持っておられましたよ。

 あと私の印象に残っているのは、健康法を具体的に教えてくれたことです。

大槻 そう、健康法は詳しかった。

柳田 お風呂へ入る時でも、初めに胸の下ぐらいまでしか入れるなとかね。酒を飲んだあとの湯の入り方とか。

前原 真向法なんかも安岡先生がだいぶ宣伝されていましたね。ああいう健康法についてはずいぶん研究しておられた。*2

柳田 真向法はお得意だったね。

江戸 静坐は?

柳田 静坐的な思想は強く持っておられたね。東洋流の哲学に始まって、長生き法までよく知っておった。

大槻 漢方薬もね。

柳田 漢方の根本をよく知っているんですね。博学ですよ。本当にあのぐらいものを知っている人はいなかったなあ。

……

前原 そういえば、柳田さん。今度岡田式静坐法の本を出したでしょう。岡田さんが四十九歳で亡くなって、その静坐法もなくなってしまうと思っていたら、こういう高弟がいて、ちゃんと守っている。

大槻 岡田式っていうのは、あの、板の上に寝るという……。

柳田 本当はそうなんだけどね。

江戸 横隔膜を下げるというやつね。

大槻 あの本を読んで、横隔膜を下げるといっても、むずかしくてできないね。

柳田 だけどそれをやらなけりゃダメですよ。大槻さんは学生時代にボートを漕いで鍛えたでしょ。そういう意味ではパーフェクトなんだ。あとは内臓を調整しないと、歳が歳だけにね。ほんとですよ。

大槻 もう半寿ですからね。

柳田 もう筋肉つける必要はない。内臓を強くすること。簡単な理屈なんだ。みぞおちが落ちさえすればいいんですよ。

大槻 それができないんですよ。

柳田 でも、その練習をしなけれりゃ。

大槻 安岡先生のサジェッションでもあるんですか。

柳田 先生とは関係ないが、意見は一致しているんだ。私がその静坐の話をすると、先生ちゃんと知っていましたからね。先生はそういう健康法を知っているんです。*3

 岡田式静坐法について、寝て行うのを本来の方法と話しているのは注目されます。それだと本当に白隱禪師の系譜に連なってしまいますから。話題になっている書籍は、前後関係で考えて以下のものでしょう。中身を確かめてみないと。

 

静坐の道―岡田式

静坐の道―岡田式

また安岡正篤自身は岡田式静坐法は行っておらず、真向法に熱心であったこと、しかし健康法としては同じものだと認識していたことも伺えます。

 

参考文献:

安岡正篤とその弟子

安岡正篤とその弟子

郭沫若と静坐(1):岡山での生活

 郭沫若が日本留学中、1915(大正4)年10月に父母に送った手紙では、岡山に移って一ヶ月後の生活を報告し、「私は岡山に来てから毎日、起居飲食を規則正しくしております。」として、一日の生活を次のように綴っています。

 

 五時半起床。

 五時半から六時半までに顔を洗って歯を磨き、冷水浴一回。

 六時半から七時まで静坐。

 七時、朝食。

 八時から午後二時まで受講。月曜日は午後三時以後、土曜日は十二時以後、授業なし。

 十二時、昼食。

 午後の放課後は復習。毎日この間、温浴一回。

 五時、夕食。

 夕食後七時ごろ散歩する。

 七時から十時まで、復習と予習。

 十時十五分、静坐して後、就寝。

 

 夕食後の散歩については、「ここに操山があり、形は峨眉山麓に非常によく似ています。稲田ばかりです。田圃の間を散歩しながら四方を見渡すと、山ばかりです。まるで故郷に帰ったようです。」と述べています。

 ここで郭沫若が朝晩行っている静坐は岡田式静坐法を参考にしたものです。続きます。

参考文献:

桜花書簡―中国人留学生が見た大正時代

桜花書簡―中国人留学生が見た大正時代

単勾式の力と美

数年前に習った単勾式と今回習っている単勾式では、式の順序や個別の動作について異なるものがあります。式4は動作の要求が細やかになったぐらいでしょうか。前回式7だったものを今回式5として教わりましたが、動作の方向が正方向から斜方向に変わりました。式6は前回と同じですが、前回は片足で立ちながらの穿掌が、今回は蓋掌してからステップバックに変わりました。
あと2式どうなるか楽しみですが、つい我慢できず李先生に伺ってしまいました。学生としてあまりよい態度とは言えませんが。。。すると、問題は個々の動作の変化ではなく、何をテーマとして学んでいるかにあるとのことでした。
つまり、前回は燕の動きを学ぶことに主眼が教えられ、今回は方向の明確化というより原理的なものを課題として教えられているとのことでした。全部で8つの学び方があり、まだまだ変化するそうです。つい細かい動作の違いに注意を向けてしまいがちなのですが、それではいかんということですね。そのように言われてみれば、今回は走圏の指導の段階から、確かに燕のように動くことをあまり強く打ち出されていません。言われる前に気づかなければよい学生とは言えず、反省することしきりですが、確かに個々の掌法を通じても李先生は一貫した指導をされています。
それでは前回学んだ内容と今回学んでいる内容は、どのように練習上切り分ければよいのでしょうか。やはり気になったので先生にお尋ねしたところ、その答えは、基本全部のせ油ましまし、でした。前回学んだ要求に今回学んだ要求を追加する。どんどん足していくんだよ、という強いお言葉を頂いた次第です。じゃあ僕がひいひい捻っていたのは正解だったのか。一安心しました。

それにしても李先生の単勾式の実演を見ていると、力強さと流麗さがよくもまあ同時に実現できるものだなと感嘆するほかありません。力を出し切ることと流れるように動くことは、実際にやってみると非常に難しく、力を入れれば動きが細切れになり、きれいにつなげれば力が抜けます。特に前後や左右に動くだけならまだしも(いやまあそれでも十分難しいですが)、180度から270度回転したりすると、自分でも厭になるぐらいいい加減な部分が出てきます。
それでも前回と今回と続けて李先生に習ってみると、少しずつ理解が進んできたし、それが動きにも反映されている実感があります。型を学ぶという伝統的な方法でありながら、型の意味をずらしていくことで、立体的な学びになっているのでしょうか。蛇や燕といった動物の動作を身につけるだけでなく、四正四斜のような方向といった抽象的な概念の体現が組み合わさるあたり、非常に中国的な分類になっていて、いわゆる“東洋”的な学びのイメージだけでは理解できない深みがあります。
こうして異なる学びを一つの型に上書きしていくことが、力強さと流麗さの合一を実現できる道なのかもしれません。