はやく動けば肺が、ゆっくり動けば腎臓が鍛えられる
李先生が言われるには、単換掌の練習において大切なのは、素早く動こうとか力強く動こうとするのはよくないとのことです。そうした実戦性を求める練習は別に用意がある。単換掌は土台作りのための練習なので、ゆっくりと個々の動作を明確に行う必要があると。
なぜなら素早く動こうとして動作がいい加減になると、姿勢が崩れてしまう。姿勢が崩れると、気血の流れが悪くなる。気血の流れが悪くなれば、身体を強くすることができなくなる。結果、練習すればするほど技術的な向上が見られても身体を弱くしてしまうわけです。力強く動こうとした場合も、筋肉を使って筋が伸ばされなくなって、気血の流れが阻害され、以下、同様の問題が出てきます。
歩眼:足の歩みは眼差しと共にある
先日の李先生の講習会では、眼法、目で見ることを八卦掌ではどのような意味があり、どんな点に気をつけるべきか指導がありました。
朱熹静坐集説注釈稿(2)
- 東洋大学所蔵円了文庫の静坐集説*1を底本とした。九州大学所蔵のもの*2と同じものと思われる。
- 訓読は底本に従いつつも適宜補った。
- 川幡太一氏の漢文訓読JavaScript*3により原文と訓読文を一括生成した。
- 佐藤直方全集や他の版本との対校は改めて。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」*4には朱子学の基本文献のデータが多数公開されており、佐藤直方全集収録の静坐集説のデータも公開されている。
静坐集説
朱子語類九十六
【現代語訳】
程伊川は人が静坐しているのを見て、何ともよく学んでいることだと感嘆して、これこそすべての要となるところなのだと言った。
【原文】
伊川見人靜坐。如何便歎其善學。曰這卻是一箇總要處。
【訓読】
伊川人靜坐するを見、如何ぞ便ち其の善學を歎す。曰く這卻て是れ一箇の總要の處と。
朱子語類十二
【現代語訳】
最近の人は根本から理解しようとしない。例えば「敬」についてただ口先だけで、実践しようとしなければ、根本が立たない。だからその他の細々とした努力のよりどころがなくなるのだ。程明道も李延平も人に静坐をさせた。見たかぎり必ず静坐をさせた。
【原文】
○今人皆不肯於根本上理會。如敬字只是將來說、更不做將去、根本不立。故其他零碎工夫無湊泊處。明道延平皆教人靜坐看來須是靜坐。
【訓読】
今人皆根本上に於て理會するを肯はず、敬の字の如き只是れ將來(ただ)說くばかり、更に做將去(なすべき)こととせざれば、根本立たず。故に其の他零碎の工夫湊泊の處無し。明道延平皆人をして靜坐せしむ看來に須く是れ靜坐すべし。
朱子語類百十九
【現代語訳】
問う、程伊川が人に靜坐をさせていたのはどうしてか。曰く、いろいろ考えすぎている人に、静坐によって心を収拾させただけなのだ。初学者などもそのようにすべきである。
【原文】
○問伊川嘗教人靜坐如何。曰亦是他見人要多思慮。且以此教人收拾此心耳。若初學者亦當如此。
【訓読】
問ふ伊川嘗て人をして靜坐せしむるは如何。曰く亦是れ他人多思慮を要するを、且に此を以て人をして此の心を收拾せしむるのみ。初學者の若き亦當に此の如くなるべし。
朱子語類百十五
【現代語訳】
問う、学び初めは精神が散漫になりやすいので、静坐をしてはどうか。曰く、それもけっこうだ。しかし静かなところでいそしむだけではだめだ。動くことでも感じ取らなければならない。聖賢の教えが、打坐だけであろうはずがない。随処で力を発揮するというのなら、読書のときも、他者と何かしているときも、動こうと静まろうと語ろうと黙ろうとどんなときも心を修めるのだ。(作業中)
【原文】
○問初學精神易散。靜坐如何。曰。此亦好。但不專在靜處做工夫。動作亦當體驗。聖賢教人。豈專在打坐上。要是隨處著力。如讀書、如待人處事、若動若靜若語若默皆當存此。無事時、只合靜心息念、且未說做他事。只自家心如何令把捉不定恣其散亂走作、何有於學。孟子謂學問之道無他、求其放心而已矣。不然、精神不收拾、則讀書無滋味、應事多齟齬。豈能求益乎。
【訓読】
問ふ初學精神散じ易し。靜坐す如何。曰く。此れ亦好し。但し專ら靜處に在りて工夫を做さざれ。動作も亦當に體驗すべし。聖賢人を教へて、豈に專ら打坐上在らしめん。是れ處に隨ひ力を著すを要す。書を讀むが如き、人を待ち事を處すが如き、若動若靜若語若默皆當に此を存す。事無き時、只心を靜にし念を息んずるに合し、且つ未だ他事を做すを說かず。只自家の心如何ぞ把捉定まらず其の散亂走作を恣にせしめ、何ぞ學に有らん。孟子謂ふ學問の道他無く、其の放心を求のみと。然らざれば、精神收拾せざれば、則ち滋味無く書を讀みて、事に應じ齟齬多し。豈に能く益を求めんか。
朱熹静坐集説注釈稿(1)
- 東洋大学所蔵円了文庫の静坐集説*1を底本とした。九州大学所蔵のもの*2と同じものと思われる。
- 訓読は底本に従いつつも適宜補った。
- 川幡太一氏の漢文訓読JavaScript*3により原文と訓読文を一括生成した。
- 佐藤直方全集や他の版本との対校は改めて。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」*4には朱子学の基本文献のデータが多数公開されており、佐藤直方全集収録の静坐集説のデータも公開されている。
静坐集説序
【現代語訳】
さて動静とは天道自然の機微なのであり、静を主として動を制御することは、学者が身につけるべきことである。古の聖賢による小学大学の方法や、居敬窮理の教えは、まったく理由があることのだ。道教徒や仏教とは動を嫌って静を求めるから、本来天道を全うするものではない。俗儒も最初から主静が重要であることを知らないために、学んだものがすべて実用的でない頭で考えたものにしかならない。それでどうして学者と呼べるだろうか。程朱が説いた静坐は学者が心を安定させる技術であり、徳を積む基礎である。今聖賢を学ぼうとする者はここに力を入れなければ、何を身につけることができるというのだろうか。静坐で心配なのは、坐禅入定に傾倒してしまうおそれがあるだけだ。我々が朱子の教えを遵守して、しっかり努力できたら、本当に善学者と言えるだろう。柳川剛義は以前朱子の言葉で静坐に言及したものを収拾し、整理して一篇にまとめた。その名も静坐集説。講義の参考にと用意したものだ。最近になって私の言葉を冒頭に載せて出版したいとの要望があった。私は静坐に注目することがすばらしいと考え、その要望に応ずることにした次第である。
享保二(1717)年秋、佐藤直方、東武僑居に記す。
【原文】
夫動静者天道自然之機、而主乎静以制其動、則學者修之之功也。古昔聖賢小學大學之方、居敬窮理之訓、良有以也。老佛之徒厭動而求静。固非天道之全矣。俗儒又初不知主静之爲要、則所習皆無用之妄動而已。何足謂之學者乎。程朱所謂静坐乃學者存心之術、而積徳之基也。今欲學聖賢者不能用力於此、則亦豈有所得於己哉。但静坐之可慮者、或有流入於坐禅入定之患耳。吾輩能循朱子之明誨、而實用其力、則誠可謂善學者矣。柳川剛義嘗摭朱子之言及於静坐者、集次爲一篇。名曰静坐集説。以備講習之考察焉。頃請冠予一言於篇首而刻之於版。予奇其注意乎静坐之説、輒應其請云。
享保丁酉季秋。佐藤直方操筆于東武僑居。
【訓読】
夫れ動静とは天道自然の機にして、静を主として其の動を制するは、則ち學者之を修むるの功なり。古昔聖賢の小學大學の方、居敬窮理の訓は、良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。老佛の徒動を厭て静を求むれば、固より天道の全きに非ず。俗儒は又初より主静の要を爲すを知らざれば、則ち習ふ所皆無用の妄動なるのみ。何ぞ之を學者と謂ふに足らんか。程朱の所謂静坐は乃ち學者心を存するの術にして、徳を積むの基なり。今聖賢を學ばんと欲する者は力を此に用ふ能はざれば、則ち亦豈己に得る所有らんかな。但静坐の慮る可き者は、或は坐禅入定に流入するの患有るのみ。吾輩能く朱子の明誨に循ひて、實に其の力を用はば、則ち誠に善學者と謂ふべし。柳川剛義嘗て朱子の言静坐に及ぶ者を摭(ひろ)ひ、集次し一篇と爲す。名づけて静坐集説と曰ふ。以て講習の考察に備ふ。頃(このごろ)予が一言を篇首に冠して之を版に刻するを請ふ。予其の意を静坐の説に注するを奇とし、輒ち其の請に應ずと云ふ。
享保丁酉季秋、佐藤直方東武僑居に操筆す。
型練習の先にあるもの
型練習といっても、馬貴派八卦掌では動作に習熟することを目的として練習してはいません。基礎鍛錬である走圏や単換掌の目的は、姿勢を正すことにより身体を強くすることだ、と李先生は言われます。現代風にいえば肉体改造です。
走圏にしろ、単換掌にしろ、実際には武術のわざとして機能するように考えられています。走圏は少し変化すれば穿掌を打つ動作になり、単換掌は様々な攻撃の動作へ変化します。もっともそうした個々の具体的な攻撃方法を想定して、走圏や単換掌を練習してはいけないとされます。原理、という言葉を李先生は多用されます。最近は、技術ではなく能力を身につけるのだ、と繰り返し話されます。ようするに、走圏や単換掌の練習を通じて、動ける戦える身体を作ることを目指せ、ということなのでしょう。野生動物が突きや蹴りの練習をするか?といった問いを格闘マンガか何かで読んだことがあります。そういうことなのでしょう。もっとも、野生動物は戦い、というか狩りの練習を子供の頃から遊びとして行っていますけども。
どんな時どんな場合でも決して破ってはならないもの、個別の規則を超えたもの、そうした原理的なものを“規矩”と呼ぶのだそうです。正しい姿勢、中正を守ることが武術に限らずあらゆる動作における規矩なのだと。これは中国哲学というか、中国文化の基層的な思考にあるものですね。どんな内容かに関わらずバランスを取ることが重要というメタ的な志向です。
日常生活や運動習慣からバランスの崩れた姿勢が癖になっているため、走圏や単換掌によって、“本来”のバランスのとれた姿勢、“自然”な状態を回復する、それが練習の目的となります。幼子の歩き方や姿勢に学べ、と李先生は繰り返します。休んだり眠ったりしているときの背筋を、歩いたり動いたりするときにも維持せよ、と。この人工的に自然な状態を作り出す、意識的に無意識な動きを実戦するといった、矛盾するような考え方は道の思想の真骨頂とも言えるものでしょう。
さて、繰り返し練習を続けて、走圏や単換掌で中正を維持した動きができるようになったら、それで練習は完成されたことになるのでしょうか。そうではない、ここからが本当の練習だ、というのが、先日の李先生のお話でした。走圏と単換掌は永遠に完成することはない。初心者であろうと上級者であろうと、常に練習し続けれなければならない。それは何故か。李先生は次のように話されました。
毎日毎日練習を繰り返しているうちに、とても調子がよい日があったりする。理由は全く分からない。それまでと同じように練習しているのに、いきなりものすごくよく動けて、心身ともに充実した状態になったりすることがある。それが次の日にはまた元に戻る。練習を繰り返しているうちに、調子のよい日が訪れる間隔が短くなる。さらに練習を重ねていくうちに、毎日充実感を得られるようになる。もっと練習をしていくと、それまで2時間練習してようやく充実していたのが、ものの十数分で充実するようになる。そしてついには、構えた瞬間に気力が充実して動けるようになる。これは正しい姿勢によって、身体の内側が変化してきたことによる。身体が一つにつながれば、気血のめぐりがよくなる。背筋が伸びていれば、精神が高揚する。練習を重ねていくことで身体が変化していけば、同じ動作で得られる感覚も異なり、新たな経験となる。変化を感じ取るため、走圏と単換掌を日々穏やかに練習するのだ。
では、こうした次の段階に進むための、具体的な練習の要点はどこにあるのか。李先生は「一気呵成」という言葉で説明されました。姿勢や動きが正しくても、動作が分割されてばらばらな状態ではいけない。一歩、一動作を一呼吸で行うこと、それが身体をつなげ、気血の流れのなめらかさを生み、身体を変えていくのだそうです。姿勢に十分注意を払った上で、余力があれば呼吸にも気をつけるようにと、歩法と呼吸の対応関係を先日教わったのですが、これもまた次の段階の練習なのでしょう。
追記(10/26):
そうそうここで書いた“充実感”というのは気分に留まらない身体変化を伴うものであることには注意しなくてはならない。一例を挙げれば(続く RT 型練習の先にあるもの - nomurahideto's blog http://t.co/zHIHzB2ZmI
— 野村英登 NOMURA Hideto (@bajie38) 2013, 10月 26
続き)腹圧をかけてもいないのに、自然と丹田周りが張った状態になる、などが充実感の現れということになる。実際、練習の途中や終わった後で、腹部が充実していることは実体験としてある。そうなる状態が普通になるのが望ましく、張る部位が全身に広がれば理想の状態ということになる。全身是丹田。
— 野村英登 NOMURA Hideto (@bajie38) 2013, 10月 26
道のりは遠い。現状、単換掌でも常に充実したまま動けることはあまりない。意識をそうした充実におくと、つい腹圧をかけてしまいそうになる。これ、よくないんだよね。背中の充実が腹部に周り込んでいかないといけないわけで。。。
— 野村英登 NOMURA Hideto (@bajie38) 2013, 10月 26
三木成夫と村木弘昌
前に三木成夫の思想と伝統養生思想の親和性について言及したが*1、三木自身、村木弘昌から調和道の丹田呼吸を学び、自分の思想と共通するものだという認識を持っていたようだ。
私もそれまで、人体の解剖学、特に比較解剖学と申しまして、魚と人間を比較するというような事をやっていましたので、当然その呼吸の問題にも関心を寄せておりました。ですから先生の丹田呼吸の世界は何の無理もなく私の中に入って来ました。以来、自己流でやっていますが、私の場合、……日常の動作の中でどのようにこの呼吸が取り入れられるかを考えています。そんな中で小、中、大の波浪息は、やはり一番なじみ深いもののようです。
この調和道の波浪息ですが、村木先生のお話によりますと、それは、道祖が九十九里浜の砂に腰を据えてその呼吸を実践していたとき、太平の波打ちに身心が溶け込まれて、そこからごく自然に体得された、ということです。この事をお聞きして私は、まことに我が意を得たりと思いました。皆さんもそうだと思いますが、浜辺にいて波の音を聞いていると心が安らいでくるものです。これは波打ちのリズムと呼吸を含めた身の奥底にあるリズムに共通のものがあるからではないかと思うのです。波打ちのリズムにはどうやら生命の根源を支える何物かが秘められているようです。
三木成夫「海と呼吸のりずむ」、『海・呼吸・古代形象』、うぶすな書院、1992年
同書には吉本龍明が解説を寄せていて、次のようにまとめている。
わたし自身は仕事のうえで、この著者から具体的な恩恵をうけた。わたしはわたしたちがふつう何気なく〈こころ〉と呼んでいるものはなにを意味するのか、そしてその働きはどんな身体生理の働きとかかわっているのか、またわたくしたちが感覚作用とか知覚とか呼んでいるものとどこがちがうのか、ながいあいだ確かな考えをつくりあげられずにいた。そのくせ内部世界とか内面性とかいう言葉で、漠然と文学の表現と〈こころ〉の働きのある部分をかかわらせてきた。だが〈こころ〉という働きとその表出、また感覚のはたらきとその表出のかかわりと区別がどうしてはっきりしない。
こんなときこの著者ははっきりと決定的な暗示を与えてくれた。……〈こころ〉とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できると見とおしが得られた。……
吉本隆明「三木成夫について」、『海・呼吸・古代形象』、うぶすな書院、1992年
内臓と感情がつながっているという、古代中国より、東洋医学や養生思想などによって受け継がれてきた身体観が、解剖学的な知見によって、近代化し、再生したとでも言えばよいのだろうか。もちろん科学的に証明されたとは言い難い。気功をめぐる言説と符合する、再物語化とでも言えばよいのだろうか。
*1:http://nomurahideto.hatenablog.jp/entry/2013/04/04/163015