Under the hazymoon

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達磨と鬼谷子と八卦掌

実は少し前から、李先生から達磨と鬼谷子が八卦掌と深く関係していることについて話は伺っていたのだが、最近、海外では話されているようなので、確定事項として考えてよいということなのかもしれない。

実際、八卦掌の門派によっては、拝師の際に開祖として達磨と鬼谷子を並べていたという伝承が残されている。詳細は伺ってないが、李先生もそのような話を聞いたことがあるとのことだった。

何故達磨なのか、という答えは『易筋経』にもとづいた鍛錬を八卦掌では行っているからだ。では、鬼谷子は?やはり武術の内容と関わる。そのさわりは前に伺っているが、詳細は李先生の講義を待つことにしてここでは筆を置く。

ところで八卦掌以外にこの両者の組み合わせってあるのかなと思って、お百度参りしてみたら、どうも靴職人の神様だったらしい。

鬼谷子は靴を犬に変化させて弟子の道案内とし、達磨は墓の中に靴を片方だけ残して西域に帰った。八卦掌はその歩法の神妙をもって知られたわけで、宗教文化という側面からも、八卦掌で達磨と鬼谷子を尊崇したのには意味があると言えるのかもしれない。

八卦六十四刀動作一覧(更新中)

八卦大刀の套路八卦六十四刀を現在学んでいますが、李先生が繰り返し強調されているのは、この套路で学ぶのは刀の使い方の基礎であって、実戦上の技術的な内容は含まれていないということです。そうした技法の類はすべて獅形の走圏と掌法の中にあるのだけども、基本的な使い方がなっていないと学ぶことができないとの由。つまり基礎の基礎を学んでいると。六十四という数は、つまりは刀の使い方がだいたい六十通りはあるのだそうです。そんなわけで、套路の順序に従って、以下、刀法の種類を挙げていきます。

  1. 剁(た):たたき切る→剁字的解释---在线新华字典 片手を添えて力一杯押し切る動作
  2. 扎:突き刺す→扎字的解释---在线新华字典 奥まで貫き通す動作
  3. 劈:切る→劈字的解释---在线新华字典 上から下まで切り下ろす動作
  4. 撩:捲り上げる→撩字的解释---在线新华字典
  5. 帯:引き寄せる→带字的解释---在线新华字典 自分は動かない
  6. 措:刺す→措字的解释---在线新华字典 この漢字であってるか未確定
  7. 拉:引っ張る→拉字的解释---在线新华字典 自分も動く
  8. 劃:そぐ→划字的解释---在线新华字典
  9. 推:推していく→推字的解释---在线新华字典

“歩眼”と自己認識

“歩眼”と言われて、最初にイメージしたのがこれですが。。。

http://art47.photozou.jp/pub/801/141801/photo/81675853.jpg
藤子・F・不二雄「考える足」)

それはともかく、前に書いた記事*1では、第一の要点として、目で見ているかのように足をしっかり動かすこと、第二の要点として、目で見た方向に足をきちんと動かすことを挙げました。対立するようですが、実際には両者は同じ要求を示しています。目は身体の上にあり、足は身体の下にあります。目と足の動く方向が異なれば、身体はばらばらになるわけで、脊柱の両端の動きであるところの視線と動線の一致は全身が一体となって動くことを意味するからです。
実際に練習していて、いちばんおろそかになるのが、目と足なのは確かです。余計なことを考えて動きに集中していないと視線はおよぐし、仮に集中して(いるつもりで)も、手や足の指先、とりわけ足の方までは神経が届かないことはしばしばです。
夏目さんが空間の認識と言い当てているような感覚*2を、“歩眼”というきわめて身体的な言葉で示しているのが重要なのでしょう。僕はどちらかというと鈍いので、第六感というか気配を感じ取るとかてんでダメなので、感覚を磨けと仮に言われた困ったでしょうが、目と足だと言われたことで、実際にどう鍛えればよいかは分かりました。できるかどうかは、まあ別として。

2月の探掌メモ

今回学んだ探掌は次の通り。ちなみに番号は今期学んだ順です。例によって李先生は、名前は教えない、順序も固有のナンバリングではない、という徹底ぶりでした。なので以下の記述は動作のメモ、ということです。

  1. 馬歩で単発
  2. 馬歩で双発
  3. ボックスで単発×3
  4. 馬歩で三発
  5. 後方に直進三発
  6. ボックスで三発×3
  7. 横単発×3

前に母掌込みで9法学んでいますが、この時点で初めてのパターンが4法あります。もっとも套路や別の掌法としてすでに学んでいる動きがほとんどで、ほぼ初めてなのは7法目ぐらいでしょうか。

はやく動けば肺が、ゆっくり動けば腎臓が鍛えられる

李先生が言われるには、単換掌の練習において大切なのは、素早く動こうとか力強く動こうとするのはよくないとのことです。そうした実戦性を求める練習は別に用意がある。単換掌は土台作りのための練習なので、ゆっくりと個々の動作を明確に行う必要があると。

なぜなら素早く動こうとして動作がいい加減になると、姿勢が崩れてしまう。姿勢が崩れると、気血の流れが悪くなる。気血の流れが悪くなれば、身体を強くすることができなくなる。結果、練習すればするほど技術的な向上が見られても身体を弱くしてしまうわけです。力強く動こうとした場合も、筋肉を使って筋が伸ばされなくなって、気血の流れが阻害され、以下、同様の問題が出てきます。

内蔵を強くするという視点からも、素早く力強く動くことには問題があります。そうした激しい動きによって呼吸も激しくなり、胸を使っていくと、気血が身体の上部に偏ります。それで肺は鍛えられることになりますが、しかし人間の力の源になるのは腎臓です。胸をゆるめ気血を下に降ろし、腰を張り常に回転させ続けることで、腎臓に気血がめぐり、腎臓が強くなることで、全身の気血のめぐりが促進されるようになるということなのだそうです。
また胸をゆるめることは胃をゆるめることになるので、食事、つまり外部からの気血の摂取を促進させてくれるのだとか。
動作を正しく覚えるためにゆっくり動くのではない、というわけです。

歩眼:足の歩みは眼差しと共にある

先日の李先生の講習会では、眼法、目で見ることを八卦掌ではどのような意味があり、どんな点に気をつけるべきか指導がありました。

李先生は、武術について考えるとき、どんな武術であっても、身法、歩法、手法、眼法の四つの側面から分析可能だとされます。八卦掌では、最重要なのは身法、体幹の安定で、初心者から上級者まで常に念頭において練習することが求められます。ただし練習の階梯としては、歩法、身法、手法の順で動作を学んで行くようになっています。最初に学ぶ龍形八大母掌の、前半四掌では歩法を、後半四掌では身法を重視して練習します。その後に学ぶ単勾式や獅形は、龍形と基本の動作を同じくしながら異なる手法を練習します。実際の学びはもっと重層的なのですが、ひとまずここでは立ち入りません。
さて、眼法はというと、具体的な練習方法はないのだ、と李先生は話されたことがありました。それではどう練習するのか、その答えの一端が先日の講習会でした。
まずそもそも、これまで一連の動作を行うとき、動作の区切りで、姿勢が崩れてないか確認するよう、李先生に促されてきました。しかしそれは、目で見て確かめるのではないのだぞ、そう李先生は念を押されたのでした。自分にもつい目で見てしまう癖があるが、それは見習わないようにとの由。身体内感で、気血の流れ具合で、姿勢のずれを確認するようにとのことでした。
その次に、歩法とは歩眼である、として、歩法と視線の関係について、李先生から実際にお手本を交えつつ解説していただきました。大きくは二つの要点があったかと思います。
第一の要点は、足を動かすときは、目で見ているかのようにしっかり動かせ、というものです。目が見えない状態で歩くとき、人はおそるおそる足を踏み出し、足元が安定しないものです。実際、動作を行うときも、つい目で確認したり、見なければ見ないで、足の位置がはっきり決まらず置き直したりしかねません。李先生はそれを戒めます。目で見ているかのように足はしっかり動かせるよう練習しなくてはならないのです。
第二の要点は、目で見た方向に足がきちんと動かなければならないということです。右なら右、下なら下を見たときには同時に足もそこに動かなくてはならない。もちろんその時には手も体も、つまり全身が目で見たところに進んでいく。視線とは、その人の注意の現れ、つまり精神です。精神の赴くところに全身が突き進む。精神と肉体の一致、それが歩法が歩眼であるということなのだそうです。これは、李先生がこれまでも何度か語られている、空間の把握、空間で戦うという原理を歩法から説明されたもののようです。
空間の把握ということについては、また稿を改めて。
 
 

朱熹静坐集説注釈稿(2)

  1. 東洋大学所蔵円了文庫の静坐集説*1を底本とした。九州大学所蔵のもの*2と同じものと思われる。
  2. 訓読は底本に従いつつも適宜補った。
  3. 川幡太一氏の漢文訓読JavaScript*3により原文と訓読文を一括生成した。
  4. 佐藤直方全集や他の版本との対校は改めて。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」*4には朱子学の基本文献のデータが多数公開されており、佐藤直方全集収録の静坐集説のデータも公開されている。

静坐集説

朱子語類九十六

【現代語訳】
程伊川は人が静坐しているのを見て、何ともよく学んでいることだと感嘆して、これこそすべての要となるところなのだと言った。
【原文】
伊川見人靜坐。如何便歎其善學。曰這卻是一箇總要處。
【訓読】
伊川人靜坐するを見、如何ぞ便ち其の善學を歎す。曰く這卻て是れ一箇の總要の處と。

朱子語類十二

【現代語訳】
最近の人は根本から理解しようとしない。例えば「敬」についてただ口先だけで、実践しようとしなければ、根本が立たない。だからその他の細々とした努力のよりどころがなくなるのだ。程明道も李延平も人に静坐をさせた。見たかぎり必ず静坐をさせた。
【原文】
○今人皆不肯於根本上理會。如敬字只是將來說、更不做將去、根本不立。故其他零碎工夫無湊泊處。明道延平皆教人靜坐看來須是靜坐。
【訓読】
今人皆根本上に於て理會するを肯はず、敬の字の如き只是れ將來(ただ)說くばかり、更に做將去(なすべき)こととせざれば、根本立たず。故に其の他零碎の工夫湊泊の處無し。明道延平皆人をして靜坐せしむ看來に須く是れ靜坐すべし。

朱子語類百十九

【現代語訳】
問う、程伊川が人に靜坐をさせていたのはどうしてか。曰く、いろいろ考えすぎている人に、静坐によって心を収拾させただけなのだ。初学者などもそのようにすべきである。
【原文】
○問伊川嘗教人靜坐如何。曰亦是他見人要多思慮。且以此教人收拾此心耳。若初學者亦當如此。
【訓読】
問ふ伊川嘗て人をして靜坐せしむるは如何。曰く亦是れ他人多思慮を要するを、且に此を以て人をして此の心を收拾せしむるのみ。初學者の若き亦當に此の如くなるべし。

朱子語類百十五

【現代語訳】
問う、学び初めは精神が散漫になりやすいので、静坐をしてはどうか。曰く、それもけっこうだ。しかし静かなところでいそしむだけではだめだ。動くことでも感じ取らなければならない。聖賢の教えが、打坐だけであろうはずがない。随処で力を発揮するというのなら、読書のときも、他者と何かしているときも、動こうと静まろうと語ろうと黙ろうとどんなときも心を修めるのだ。(作業中)
【原文】
○問初學精神易散。靜坐如何。曰。此亦好。但不專在靜處做工夫。動作亦當體驗。聖賢教人。豈專在打坐上。要是隨處著力。如讀書、如待人處事、若動若靜若語若默皆當存此。無事時、只合靜心息念、且未說做他事。只自家心如何令把捉不定恣其散亂走作、何有於學。孟子謂學問之道無他、求其放心而已矣。不然、精神不收拾、則讀書無滋味、應事多齟齬。豈能求益乎。
【訓読】
問ふ初學精神散じ易し。靜坐す如何。曰く。此れ亦好し。但し專ら靜處に在りて工夫を做さざれ。動作も亦當に體驗すべし。聖賢人を教へて、豈に專ら打坐上在らしめん。是れ處に隨ひ力を著すを要す。書を讀むが如き、人を待ち事を處すが如き、若動若靜若語若默皆當に此を存す。事無き時、只心を靜にし念を息んずるに合し、且つ未だ他事を做すを說かず。只自家の心如何ぞ把捉定まらず其の散亂走作を恣にせしめ、何ぞ學に有らん。孟子謂ふ學問の道他無く、其の放心を求のみと。然らざれば、精神收拾せざれば、則ち滋味無く書を讀みて、事に應じ齟齬多し。豈に能く益を求めんか。

*1:OPACが表示するURLが機能しないし、CiNii Booksへのリンクも切れている(2013.11.12時点)。

*2:http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA68343170

*3:https://github.com/kawabata/kanbun-javascript

*4:http://mokusai-web.com/index.html