Under the hazymoon

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覆水を盆に帰すぞ八卦掌

八卦掌川柳第一弾。なんじゃそりゃ。でも歌訣ってそういうことだよね。それなら和歌にせんとだめか。

最初の頃は身体感覚がまるでなくって、正直なところ、走圏を直されても何となく分かったような感じでピンときてなくって、いろいろ試行錯誤していたんですが、最近は、足でかんだり、腰をのばしたり、肩の力をぬいたり、といった感覚がおぼろげながら感じるようになって、もちろんきちんと要求に応えた走圏はできてないんですが、遠藤老師に直されたときに、身体感覚の変化で修正を感じ取れるように少しはなってきたように思います。ちょっとは進歩?
また身体感覚がましになってきたことで、走圏をしていて身体内部からのフィードバックを実感できるようになり、これでずいぶん走圏が楽しくなってきました。最初の頃は単にきついだけ、で感覚の腑分けができてなかったので、走圏がイマイチ楽しくなかった。それが内部でつっぱったりふんばったりしてるのが分かるようになってきました。これって筋ができてきてるのかなあとか思うわけですが。いやふらつきますけど。ぶれますけど。ただこうした感覚があるいは間違ってるかもしれませんが、走圏をする楽しみの一つになります。身体との対話ってやつですかね。錬功を重ねると走圏が気持ちよくなってくるそうですので、ちょっと楽しみです。

それで、何で覆水を盆に帰すかというと、今日の練習で遠藤老師が走圏を次のようなたとえで説明してくださったんですね。走圏の際の力の加減についていえば、それは走圏は水をたたえた洗面器を両手で持ち運ぶようなものであるとの由。力が入ってなければ器は当然支えきれない。かといって力を込めすぎてがちがちになると器を安定させれず水をこぼしてしまう。つまり走圏では身体を安定させる以上の力は必要ない。安定が持続すれば気が蓄積され、やがてより力を込めれるようになると。力の強弱よりも持続が重要というわけです。
この支える力は端腰と堤肛でつくるわけですが、加えて足でかむ力もどうバランスをとるかという問題がありますし、確かに歩きながら一定して力を入れ続けるのは、ホントに難しいです。つか、まだ全然できねーです。
さて、気が蓄積されるのはどこかといえば丹田なわけで、つまり器が丹田のことで、水が気ということになります。じゃあその水はどこから器に注がれるか。これは上半身からぽたぽたとしずくのようにたまっていくのです。勢いよくかければ水は器から飛び出てこぼれますから、自然に重力に任せて流し込むのがよい。だから上半身の力は抜いてゆるめる必要があると。走圏の上鬆下緊の意はここにあるそうです。
このたとえは、もう超級分かりやすかったです。水と器というイメージもまたきれいだし。伝統的に相性いいですしね。まああくまでたとえであって、これを具体的にイメージしながら走圏をするというのはたぶん間違いかなあと思うんですが、そのあたりどうなんでしょう。イメージしちゃうと瞑想になっちゃうから、内を動かすことになっちゃわないかと思うわけです。外動内静が内家拳の基本ですもんね。まあたとえとして理解しておいて、実際に走圏をするときには、遠藤老師の言われる要求をひたすら実現すべく身体の声を虚心に聞くというのがよさそうです。イメージしながらだと、何かそれだけでやれちゃった気になりそうですもん。妄想癖あるからなあ、僕。
まあでも前々から、熊形走圏はプーさんがはちみつの壺を抱えてるような感じで、とかボケてましたが、あながち悪い発想ではなかったのかも。『タオのプーさん』 (amazon, bk1)て名著もありましたし。