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幻想を抱いていたのは日本人「支那学」研究者だけだったのか?

子安宣邦日本近代思想批判−一国知の成立− 』(amazon, bk1)をとびとびに読んでます。
とりあえず2部第1章「近代知と中国認識−「支那学」の成立をめぐって−」から読みはじめました。そこでは内藤湖南の中国認識が如何に帝国主義(植民地主義?まあどっちだっていいですが)的であるかということを論じているのですが、でも、こうした「支那学」者の意識って、ほとんど当時の中国人知識人と同じに思えます。日本人だからそういう見方をしたわけではない。
 

ようするに、子安さん自身の中国認識が、ベクトルは別の方向だけども、構造的には批判している日本人「支那学」者と同じなんですね。日本は特別なんだよ。アジアの中で日本だけが近代の罠にはまったんだよ。。。なんだかな。もちろん近代中国知識人も同じ病(さて知識人全員がかかっていたとしたら、それは知識人の病なんでしょうか。常態じゃないの?)にかかっていたと認識されているかもしれませんが、当該箇所を読んだかぎりではそのへん読み取れませんでした。内田樹さん言うところの病識がないってやつじゃないですかね。
それからもうひとつ、そうしたスタンスと不可分と思える客観的態度を装った左巻きっぽい物言いが引っかかってスムーズに読めないのが難点ではあります。「科学」的な客観性を政治的な正しさの保証にしてるっぽいのが嫌なんですよね。何か「真理」とそこへ到達せんとする意志を冒瀆されたようで。せめて客観を装うことはやめて欲しい。右だの左だのは政治活動として正面切ってやればいいと思うんですが。僕自身は研究者が政治活動や宗教活動を公然とする分には問題ないと考えます。だって生きてるだけで何らかの立場に立たざるをえないんだもの。
 
また、子安さんと重なるような重ならないような分野になりますが、中国学研究なかんずく「正統的」な経学研究にはこの問題は実は非常に大きいはずなのです。同業者というか業界のはじっこから中央付近を眺めていると、大丈夫かねこの人たちと思うことはしばしば。社会に対して自覚がある山形浩生さんやおおやにきさんの方がよほどすぐれて儒者であるなと思います。
その意味で戦後で文革前あたりに日本人中国文学研究者の人で、論じている内容とは関係ない、いや魯迅のことだったからいいのか?(爆、テーマを論じた論文の末尾に「中華人民共和国万歳」などどすらっと書いてあったりしたのを見て、昔はドン引きだったのですが、今ではそういった方が、倫理的には好ましいと思うようになった今日この頃です。いやそんなこと書く人と友達にはなれそうにないんですが。がしかし、旗幟鮮明にできないのなら、いっそせめて古典に耽溺して余計なことは言わない奥ゆかしさが好ましいのではと思います。もちろんそんな奥ゆかしさは今では認めてもらえないわけですけども。