Under the hazymoon

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心は腹に、力は足に。

 中国語で言えば、さしづめ「意在肚、力在腿」といったところでしょうか。
このところ練習で遠藤老師から腰の充実を重点的に教えていただいています。で、何度も手を替え品を替え丁寧に教えてもらってるうちに、鈍い僕にもようやく腑に落ちてきました。ようするに、腰回りの充実というのは、「含胸亀背下端腰」の要求をきちんとこなすことで、その際に肩に力が入らないなど「上鬆下緊」がきちんとできていると、自然と力が足に送り込まれて「大力在腿」となるということなんですね!えー、今頃納得したのかよ。そうなんです。

 これで李老師の言われていた意念は丹田において、足に力をこめるという、言葉通りに聞くと何だか分裂した行為も実に一貫していることが分かります。意念を丹田におく=腰回りを充実させることで、自然と力が足にこめられる、そういうことなのだなと。それでもう一つ分かったのが、李老師から走圏をするときの注意として、みんな気が丹田に集まってません、意念をもって集めて走圏をしてください、と言われたことがあり、気なんて分からないですよせんせー、とか思ってたのですが、これも同じことを言われていたのだなと頭では理解できるようになりました。
 「含胸亀背下端腰」を意識して行う=意念を丹田におく=気が丹田に集まっているということなんですね、おそらく。だって身体を流れる気が目に見えるでしょうか?見えません。それなのに李老師がなぜ僕たち生徒の走圏には気が集中されてないと一見して分かったのでしょう。それは結局気が丹田に集まるような「体勢」でなかったから、でしょう。第一、八卦掌では気のコントロールとかそういった訓練はしないことになっています(上の段階にすすむとどうかは分かりませんが)。実際、民国期の拳譜を見ても、身体内の気のコントロールは内丹の修行法であって、武術は身体外、というか目に見える身体の動きによって修行するものだと説かれています。であれば、やはり八卦掌の練習において、「気が集まってない」という指摘は、そのような身体の動きが出来ていない、と理解してよいということになるでしょう。つまり、「含胸亀背下端腰」という身体の体勢を維持することそれ自体=丹田に気を集中させること、であり、意識してそのように身体を正しく動かしていれば、「上鬆下緊」となり、「大力在腿」が達成できる。李老師や遠藤老師の言われてることは一貫したただ一つの行為についての言葉であったのです。しかしそうと分かったのは、とりもなおさず、未熟なりにも走圏と通じて獲得した身体感覚/経験と照らし合わせてのことで、ここでもまた、とにかく走圏しなさい、というのは真実であるのだなと実感した次第。考えるな、感じろ。ってことですね。

 もちろんそれですませてしまっては学者として失格なので、こうしてあれこれ言語化しようと試みているわけですが。個人の心がけとしてはとにかく実践しましょうというので間違いないんですけども、そこで言語化(≒普遍化)を拒否してしまうと、実は相当あやうくなってしまうわけで、ごく身近人間関係やクローズドなコミュニティでしか通用しない/させてはいけないと思うのです。まあ確かに、せっかく面と向かって教えてもらってるのに、他人の紙に書いたことの意味を聞くのは野暮だなあとは思います。

 いやそれにしても、僕は気なんて身体感覚としてしか実感できないものだから、その実在をどうこう言うのは実にナンセンスだと思っていて、そう思ってるからこそ、八卦掌で習っているような身体の型にすべておいている功法をすぐれていると考えてたのですが、やはり中国哲学の世界に身をおいていると、ついつい気の実在を前提にした理解に流されてしまうんでしょうか。ちょっと目が曇っていたと反省しています。

付記:ココログでのコメント

いわとさん曰く:

八卦掌は一つの原理で貫かれていることが面白いですねー。走圏にそのすべての原理がある、ということがだんだんわかってきます。僕は三十年ほど中国武術の馬齢を重ねてきましたが、これほどはっきりとしたカリキュラムにであったのは初めてです。随分いろんな武術を見てきましたが、これまで走圏の位置づけを納得させてくれるものってなかったんですよ……。

ここらへんの書き方は微妙ですね。
セクト主義ととらえられかねませんから(笑)。
武術のことを書くのは難しいですね。

ふーじぃさん曰く:

コメント入れたつもりだったんだけど、ナゼか入ってなかったです。送信を忘れたのかなー。なので、自分のブログに書き込みましたが、長くなってしまった。無断ですまんです。

僕曰く:

おはようございます。

いわと師兄:
どうなんでしょう、難しい問題に思えます。古い拳譜をいくつか眺めてみると、例えば八卦掌にしろ太極拳にしろ、大差ない構成で書かれていますし、また八卦掌の拳譜には走圏の訓練法はあまりきちんと書かれていませんが、それが秘伝だからかはともかくとして、馬貴派だけに残っていたと考えるよりも、他にも残っているだろうけど、僕たちの身近なところに届いていないと考えた方がよくはないかと思います。集団の規模が大きいと周辺部分はどうしても薄くなりますから。
またそう考えてしまうのは、だいたい中国の思想ってのは、全体と細部が呼応し、一つの真理によって構成されているような発想が基本なので、僕は馬貴派の錬功法を特別だと認識するよりも、すぐれて典型的な中国哲学の体現だなあと思って感嘆してしまうのです。つまり拠っているところが普遍的なものなので、他にも同様のものがあると想定する方が自然なのです。失われてしまった可能性はあるでしょうけど、細腕繁盛記(って腕は太いけど)な馬貴派が残っていたのであれば、継承されている可能性の方が高くはないかと。このへん実態を知らずに理屈で書いていますが。
走圏とは違う論理だけど同じように統一された理論で構築された体系をもつ門派がいっぱいあると楽しいなと一研究者的には思っています。比較の対象がないと研究できませんので(^^ゞ

ふーじぃ師兄:
えっと、ブログの方、マジにたくさん書いてあるので応答はしばしお待ちくだされば幸いです。過分なお褒めにあずかり恐縮です。基本線はほとんどおっしゃる通りです、が、少し補足を後ほど。。。

いわとさん曰く:

あっ、そういうつもりじゃなかったのね。
野村さんが言う通り、人間の体なんて同じだから、功法なんて大差ないはずですわ。もちろん他にも同じようなものがあるはずでね。
ただ僕が武術畑を三十年歩いてきて、あるいは取材者として中国で見聞して、これまでそうしたものを見ることができなかったというだけの話です。
見つけだすのは大変ですよ、ホント。
僕は比較研究する気はもうないけどね。
みんなちょっとやそっとじゃ、
真実なんてなかなか話してくれないからね(笑)。
でも時代が変わってるから、これからはやりやすいかも……。