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『きみはもう「拳意述真」を読んだか』

 八卦掌のO師兄から孫禄堂の『拳意述真』って翻訳あるよと教えていただき、多謝、多謝、で、見つけたのがこちら。笠尾恭二『きみはもう「拳意述真」を読んだか』*1です。笠尾さんって『中国武術史大観』*2の人じゃないですか。ふむふむ。現代語訳+漫才式の解説に、原文影印?までつくお買い得の一冊です。取り上げられている武術家についての補足情報など豊富でたいへん有り難かったですし、形意拳についてはほとんど知らなかったので、ためになりました。

 とはいえ、理論部分、といっても技術の方ではなく、修養の方の、内丹についての文章の翻訳は多いに問題有りと言わざるを得ません。ほとんど誤訳か訳し誤魔化していることと、中国語のというか、この手の文章の、構成する文脈をどうも理解していないように見受けられるんですね。つまり僕の研究に関するところは全くほとんど放棄されてます。あうあう。
例えば、『拳意述真』の中核となる「第四章形意拳」冒頭において、形意拳には三層の道理、三歩の工夫、三種の練法があるとして、それぞれ、

  • A道理:(1)練成化気 (2)練気化神 (3)練神還虚
  • B工夫:(1)易骨 (2)易筋 (3)洗髄
  • C練法:(1)明勁 (2)暗勁 (3)化勁

を挙げるのですが、笠尾本ではこれを都合九段階の修練過程だと思いっきり誤読してるんですね。しかしこれは、後文の明勁・暗勁・化勁の各解説からも明かなように、一つの修行が三段階に別れていて、それを三つの立場から言い替えているだけのことなんですね。ようするに、同じ一つのことを、宗教的な文脈ではA(1)と言い、気功的な文脈ではB(1)と言い、武術的な文脈ではC(1)と言う、A(1)=B(1)=C(1)だということなんですね。

 このあたりの孫禄堂の解釈は内丹をうまく武術的な実践に取り込んでいて興味深いです。孫錫堃『八卦拳真伝』では武術の修行と内丹の修行を身体外/内の双修に配置していますし。どちらも伝統的な内丹の言説の構造に依拠しつつも解釈の立場が違っているわけです。

 仮に内丹方面の知識がないとしても、まあよくある論法な訳で、中国古典をある程度読みつけていれば内容を見るまでもなくそうと察せる類の文脈なんですが、こうした中核的な部分以外のところでも、ほとんどきちんと訳されてません。内丹の翻訳書などを参照はされているのに、どうしてこうなのか。あんまり興味ないから流しちゃってるというところもあるのでしょう。残念です、楽できると思ったのに。

 とはいえ、これはあくまで研究者としての立場からの評価である、ということは強調しておかなくてはなりません。というのも、誤訳である、という判定は、思想史的観点から孫禄堂当時の意味内容を検討したことによるもので、笠尾さんは武術の実践家でもあるそうですから、一武術家としてこう翻訳した、と理解すれば、それは誤読ではなく解釈になります。つまり、民国期の文献の二次的な研究書ではなく、現代に継承された中国武術論の一次資料として評価すればよいということですね。この本を読んだ人がそうか孫禄堂はこんなことを言っていたのかと理解して武術の実践に反映させ継承していけば、数十年後には、民国期から21世紀の日本に到るまでの形意拳理論の変遷として研究の対象となることでしょう。ただそれは民国期の理論を研究しようとしている僕にはあんまり役に立たない、というだけのことです。

 それにまあ、こと実践ということで考えれば、理論を正しく理解していることよりも、持って生まれた身体的才能や、たゆまぬ錬功の蓄積とかの方がはるかに有効でしょうし。逆に言えば、強い/強くなったから、その理論が正しいとは言えないということなんですよね。あ、この場合の正しいは、歴史的、文化的に見て、ということですが。こうした実践/理論との関係と読みの正しさ/多様さの問題はなかなか難しいわけで、さくさくとは解決できないので、あまり考えず、とりあえず民国期の拳譜を自分で読んでいかねばなりません。うう、時間が欲しい。じゃあ飲むな。無理です。

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