Under the hazymoon

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内外相合と型の意味

 いよいよ李老師の夏の講習会が始まりました。今月はいろいろ予定があって飛び飛びにしか参加出来ないのが残念です。で、三日目の昨日に参加したところ、今回は双換掌とその変化を学ぶというコンセプトのようです。初学者としては、ほとんど八卦掌の深奥を垣間見るみたいなつもりでの参加です。基礎体力というか基礎走圏力がある程度ついてないと、尋常でなく疲れます。そーです、へろへろほえほえでした。

 現在の僕にとって、一番勉強になったのは、次のような李老師の言葉です。伝統武術において、良き先生はまず最初に動作の意味を教え、それから実際の動作を教える。そしてその動作を通じて、より深くその意味を理解すると。昨年の冬の講習会では、走圏を母/一/道に、各種の技撃を子/多/万物として、道教的な宇宙論と八卦掌の技の体系を論じられてましたが、今回はそれをより一般的なかたちで言い替えられたといったところでしょうか。
 ポイントは、この理論を走圏に適用するとどうなるか、ということなんですね。型の重要性はすでに言及した通り*1ですが、李老師によれば、型のために型の練習をするのではなく、型の意味のために型の練習をしなくてはいけない、と。では走圏という型の意味はといえば、それは「気血」なのですと李老師は語られます。気血の充実のために走圏は行われる。龍形走圏は気血を充実させつつ筋骨を開くことで手の先まで気血を広げる練功だというわけです。
 で、走圏の際に気血を丹田に充実させるって具体的にどうするの?という疑問については、こないだあれこれ考察した「身体の体勢を維持することそれ自体=丹田に気を集中させること」*2という理解でどうやらよかったようです。李老師は「内外相合」を多くの人が間違って理解していると言われます。どういうことか。内=体内の気の操作、外=身体の型の動作と考えたとき、一般には「内外相合」を言っても、先に内を練じ後に外を練ずる、あるいはその逆の順序といったように内外の修行を別のものとして理解されがちです。しかしそれは本当の相合ではない。そもそも人間には身体は一つしかない以上、内も外もなく、身体の動きがそのまま気の操作なのだと李老師は喝破されるのです。実際、李老師は気を集中させてと言いつつも、実際のアドバイスは胸を落として背を丸め、腰を伸ばし、足までを自然につなげてといった動作についてのものしか言われないわけですが*3、これは言葉通りの身体運用がそのまま気血の充実につながっているから他に言葉にしようがない、ということなのでしょう。「意到、気到」と言われていることを八卦掌の立場で理解するためにはその前提として「形即意、意即形」であることを理解せねばならないということでしょうか。
 それにしても、走圏での姿勢はこうだよと含胸亀背下端腰の姿勢を上から順にやってくださった李老師のからだ自体があたかも龍の爪のようにぐっと何かをつかむようで、「抓地」ならぬ「抓空」の迫力があり、まさしく先天の一気を虚空につかまんとする印象を受けました。龍の掌中には如意宝珠が握られます。神話学的には如意宝珠と金丹は等しい存在ですから、まさに走圏のとき、そこに金丹が現れるのかもしれない、そう思えてしまったのでした。と、やや文学的に表現してみました。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20060713/1152805977

*2:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20060610/1149949860

*3:初学者の段階では、ということはもちろんあり得る話ですが