人文情報学部履修要覧
もろさんが出張で東京に来たので、目指せ科研費ネタで意見交換をば*1。とはいえ武術ネタの方が時間長かったような気がします。僕はそれなりに好きだけどさして詳しいわけではないので、いろいろ聞けておもしろかったです。空手の正拳突きがマウント仕様だったとかは驚きつつも納得。沖縄唐手→空手の誤配の問題も興味深い。正統性を問題にしない武術史というのをやってみたいですねえ。次回にはこっちも八卦掌ネタを用意しとかないと。ってだいたいここで書いてしまっていて、秘密のネタはあんまりないのであった。
ほんで、では、人文情報学及び人文工学について、僕自身のいちばんの興味はというと、どのように情報処理技術を使って人文学の研究をするか、でも、どのように人文学を情報学的知で再構築するか、でもなくって、情報学を奇貨として人文学的知とその実践とは何なのか考えてみることにあります。
文献を読むとは、用例を探すということはどういうことなのか、といった伝統的な問題だけでなく、そもそも近代アカデミシャンとして学術論文を書くとはどういうことなのか、また論文で先行研究に言及する/しないとはどういうことなのか、などなどと研究者自身の研究者としての有り様の問題について、僕は考えずにはいられません。そこまで込みで方法論や研究史を論じてみると。人文学をフィールドとして参与観察するといった趣に近いです。この自己反省的な自己言及さが近代アカデミズムとしての人文学というか哲学の醍醐味じゃないかと思います。それにこうした視点は、学術の社会還元という問題を考えるとき外せないでしょう。
問題はこうした視点をどのようにかたちにするか、ですが、やはり論文を書いていくしかないよね、ということで、研究費の獲得行為自体も射程に入れた上での科研費獲得を目指してみようとかいった話を、こーんな大風呂敷からけっこう具体的にしていった次第です。がんばって畳むぞー。
それはそれとして、その過程に話に出てきた新学部構想、すごくおもしろいと思いました。人文情報学部なるものを設立するとして、そこでどんな授業を行うかカリキュラムを考えてみるというのは、人文情報学とは何かといった問題を分かりやすくかつ具体的に論じることができて、かなり有効かつ楽しい方法です。僕自身は、むしろ既存の大学や学会のような組織に縛られないかたちで研究ができるような環境の可能性を考えたりしていたのですが、仮想(妄想?)の方向性としては近いように思いました。いっそ『前田建設ファンタジー事業部』*2にならって、『東西大学人文情報学部履修要覧』とかなんとか作っちゃうというのはどうでしょうか。論文ではないけれど一つのアウトプットとしてはおもしろいかな〜と思うんですけど。
追記(07/30):
むにゃむにゃさん*3の、フィールドワークという物言いは相手を馬鹿にしているようでいやーん、という注記は確かに一理ある。僕自身、自虐ネタ的な感覚がないでもないです。それに同じ言葉でも身内ならともかく他人に言われたくないということはままあるわけで。
ただ僕が中国哲学という名前を気に入ってる理由もここにあって、永井均さんが自分自身の存在の不思議さを問題にしてみせているように、僕もしてみたいという欲望があります。八卦掌を学んでいるのもその実践の一環だったり。何というか力不足で空回りしてるような気もするけど。