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『中国人、会って話せばただの人』

 田島英一『中国人、会って話せばただの人―近くて遠い隣人との対話』(PHP新書、2006)*1
 

目次は以下の通り。

まえがき
第1章 海辺の「中国人」たち―二〇〇四年三月・広東省

  • 自由市場の喧騒
  • 広州のオールド・タウン
  • 変わる広州、変わらない広州
  • 広州地下鉄に思う
  • 中山へ
  • 先鋭化する種族意識とナショナリズム
  • ……

第2章 沈黙と祈り―二〇〇四年八月・広西チョワン族自治区など

  • 中国の社会団体
  • 湘江のほとりで
  • 「洋教」の微妙な立場
  • もうひとつの中国
  • 現代の「」と大祭司
  • 正か邪か
  • ……

第3章 「東アジア」の彼岸

  1. 西双版納(一九九〇年五月・雲南省)
    • 一通の情書(=ラヴレター)
    • 痛恨のフナ
    • ……
  2. 茶馬の古街道(二〇〇五年三月・雲南省)
    • 麗江の憂鬱
    • 「正統」幻想
    • ……
  3. 「民族」という名の呪詛(二〇〇一年八月・チベット自治区))

参考文献
あとがき

 すらすらと読める文章と小さいながらも豊富な写真で中国の「老百姓」の社会が記述されていておもしろく読めました。紀行文的感傷が著者の倫理的節度さの表明になっていて、好意をもつ一方で、うまいスタンスの取り方だなと裏読みしてしまうのはやはり職業病でしょうか。
 内容は政治的にならざるを得ないのでここでは言及しませんが、その説得性に一抹の欺瞞を感じつつも政治信条を議論するよりも現場を紹介するフィールドノートの方がだんぜん読ませるよなあと再確認した次第です。
 もっとも同じ研究者として興味を持ったのはあとがきの著者の地域研究者ならではの苦悩が書かれたところだったりして。あとがきの最初の方で、

 研究する相手は、生きた人間だ。その成果が、論文や著書としたった形で結実すると、それが大学、学会、社会における、みずからの地位向上へとつながる。つまり、結果として、生きた人間を踏み台に、あるいは家族を養い、あるいは立身出世をはかっていることになる。そこに、一抹のうしろめたさがないはずはない。またそれは、個人の利害を度外視した神のごとき超然性、世界を「客観的に」俯瞰する視座などというものと研究者とが、いかに無縁であるかを物語っている。

と述べる著者は、だからこそ、著者は常に自らの研究対象へ向かう立場を常に問い直す誠実さが必要なのだとします。これには全く同意するものです。程度の差はあるでしょうが古典研究者であってもこうした問い直しはせざるを得ないわけで。ただ、

そうしたうしろめたさに対する言い訳もあって、少なくとも私は、ひとつの条件をみずからに課している。それは「相手の幸福にとって不利なことは主張しない」という原則だ。

これを著者は人として自らに課しているそうですが、その「ナイーブ」さは確かに好ましいものの、あのー、でも実際にあなたの給料や研究費を払っている人は誰でしょう?そのことについても考えて配慮しなくてはいけないんじゃないですか?と水を差したくもなったりします。もちろん著者の方に配慮がないと言ってるのではないです。一般論として想起しただけで。というのも研究者、なかんずく人文学方面の人間の場合、対象への反省的検討はあっても雇用者*2への反省的検討がない場合を割に多いんじゃないかという気がします。滑稽としての知識人*3たる病識の有無と言い換えてもいいかもしれません。これもまた「研究経営」の問題でしょうか。
 うーん、何を読んでもこっち方面に妄想が走ってしまうなあ。

*1:ISBN:4569649629:detail

*2:ベタに言えば現代日本社会ってことになりますか。

*3:ISBN:4006000693:detail http://cruel.org/other/kokkei.htmlも参照。