Under the hazymoon

http://researchmap.jp/nomurahideto/

人文学者の目標誤認問題

 久々に方法論懇話会の方々に会い、ビールをぐびぐび飲みながら、研究者と実践者の差異のグラデーションについていろいろと話し合い、非常にためになりました。結論としては、今後は北條さん室井化計画をすすめようということに(謎
 人数は三人と少なかったのですが、民俗学者、歴史学者、哲/文学者と各界を(勝手に)代表する三者が揃い踏みだったので、それなりに濃い話になったのではと。
 で、そこで話題になったもののうちの一つが、人文学者の目標あるいは自己像の誤認という問題です。というか、いつものように、そもそも問題だと思われてないよね。えー。というところから始まったりするわけですが。ビールの泡に詳しい内容は消えたことにして、ともかく名前は大切ということで、キャッチフレーズを考えました。
 

 一つは「読みの正しさと深さ」に関する格言で、「一般に歴史学者は正しく読もうとするのに対し、哲/文学者は深く読もうとする」というものです。テクストを正しく読むことと深く読むことは必ずしも同じ行為を意味しないということです。もちろんどっちか片方の読みだけを求めてるわけではなくって、研究者としてはより正しくより深く読むことを追求するわけですが、土壇場でどちらかを選ばないといけないとき、例えば断崖絶壁から「ただしくん」と「ふかみちゃん」が同時に落ちようとしているとき*1、どちらに思わず手を伸ばして救おうとするか、と極限的な状況を考えたとき、どちらを選ぶかで自分の研究者としてのスタンスが分かるだろうというものです。
 もちろん、ここで言っている歴史学者と哲/文学者はロールモデルとしてのそれであって、現実の業界的属性が反映されたものではありません。で、問題なのは、どちらを選択することがすぐれているか、正解かということではなくって、自分の選択を正しく認識しているか、という点にあります。というのも、というか、実態としては、自分では「ただしくん」を助けたつもりで「ふかみちゃん」に手を伸ばしている研究者とかがいるわけですね。内田樹さん言うところの病識がないというやつで、これが実にくせものなわけで、しばしば議論のねじれを起こす原因になっているのではないかと。
 もう一つが、「人文学者の真・善・美」問題、まあ構造は「正しさ/深さ」問題と変わらないですね、でその格言はというと、「一般に歴史学者は真を求め、宗教学者は善を求め、哲/文学者は美を求める」というものです。もちろん近代以前においては「真・善・美」は分かちがたい価値観だったわけですが、そこは近代アカデミシャン(爆、けっこう分節させてるんではないかと。そして、はいそうです、「まりちゃん」「よしこちゃん」「みどりちゃん」はよく似てるので、選んだつもりで違う子を選んでる状況もやはりしばしば見受けられるように思います。「アカデミカル・コレクト」*2のつもりで「ポリティカル・コレクト」を主張されてる歴史学者の名前を挙げることはそう難しいことではないでしょう。
 僕自身は研究者が真理*3だけに奉仕する必要はないと考えています。大切なのはそのときその立ち位置はどこかという自己認識を正しく保てているか、方法と実態が一致しているか、という点において誠実であるかどうかではないでしょうか。なので、科学なんて言わずにいっそ芸術歴史学と言ってしまえと思ったりもするわけですが。
 で、こうした話と室井化計画に何の関わりがあるのかというと、実はけっこうあったりするんですが、これは次回に続く。。。のか。

*1:以下適宜諸概念を萌えキャラとして脳内変換されたし。

*2:という言い方があれば、ですが

*3:しばしば「科学」として言い換えられますね。それでいいのかどうかはともかくとして。