nomurahideto's blog

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修行体系の違いによる意識形成の差異

 今日もひいこら八卦掌の練習をしてきました。順勢掌の身体を低くするための練功がきつくて内股のいたいこと。身体硬いなあ。でもその後にもう一度走圏をやると何だか腰のところがびしっと決まった感じがしました。これはNさんに指摘されてやってみて自分も気づいたわけなんですが、Nさんはさすが身体を動かすプロというか、走圏のときの 鼠径部のおしこみをすると足から腰までが一本の棒になるんですよと、かたちをつくったら、本当に目に見えて腰んところが巻き込まれてるんですね。すげー。僕は全然です。もっと練習しなくちゃと反省しつつ、気がつけば2年目に突入。
 

 さて、今日は易の理論に絡めて八卦掌の修練体系についてお話があってたいへん興味深かったです。火水未済から水火既済へ変化させるという易の操作はどうも卦ごとひっくり返すので、陰陽が混ざったままで乾坤にはっきり分かれず、ちょっと内丹とは違うのかなあとか聞いていたのですが、個人的にぐっと来たのはその際の「火」=「心」、「水」=「腎」の解釈です。
 遠藤老師によれば、「心」といっても具体的な臓器の心臓のことでなく胸全体を指すし、「腎」といっても具体的な臓器の腎臓のことでなく臍下丹田を指すのだそうです。これは走圏の「含胸亀背下端腰」の要求に照らしてみて全く当然の帰結なのですが、そこでぱっと連想したのが『悟眞篇』での「心の気は心臓の気ではない」とかなんとかいったような物言いです。あれは禅的レトリックなどではなく、ひょっとしたら文字通りの意味で、心臓を観想する修行体系でなく胸を落とす姿勢を操作する修行体系への移行の表明だったのかもしれません。気という言葉に気をつけていたのに惑わされていたということでしょうか。もちろん検証は必要ですけど、丁寧に読んでいけばうまく拾えるかもしれません。
 
 もう一つ、ああそうかと思ったのが陰陽をバランスで考えるという思考方法です。これは遠藤老師が前から何度も言われてることで、僕自身そのまま受け取っていたのですが、ある問答を経てもう一回聞くとかなりこれは示唆的だと気づきました。
 というのも、この前の研究会である人から内丹では本当に陰の価値は低いの?陰陽は対等でないの?と聞かれ、いやだって自分の中の陰の気を全部消して陽神に変えるんだから陰陽対等ということはないでしょうと返答したんですね。で、何故そう考えたのか根拠というか引っかかった理由を尋ねたらそれは教えてくれなかったので*1、女性だからそんなこと言うんかな*2とまあそこでは納得してたわけです。
 で、今回、あるものを指してそれが陰か陽かはその場その場で相対的に決められるものにすぎないので、そのラベリングの内容自体(それが陰であることあるいは陽であること)には意味がないという話を聞いて、そうかそうかと一人納得したのでした。僕は常々、気といってもフィジカルものとしてよりも操作概念として想定されているものとして文献を読んだ方が、多くの場合分かりやすいと考えていたのですが、陰陽もそうなんですよね。フィジカルなもの、自然物としての陰陽の気ともう一つ、事象を二分法で分けて理解するための操作概念としての陰陽があって、気の場合と同様、文献の中ではしばしばそれらはさしてそのレイヤーの違いを気にせず混在して使用されることが多い。内丹文献においてもそれは同じで、物質としての陰陽と概念としての陰陽が混在しているわけです。それをある視点で見たときには切り分けた方が理解がすすむ、とまあそういうことですね。
 で、何で陰陽に切り分けるのか、それはバランスをとるためにあえてはっきり二つに分けているんであって、分かれた二つを止揚して一つに合わせることに意味がある、というのが遠藤老師の回答でした。見る側が自然の中に陰陽を見出している、というのは道家的で実にステキです。

*1:どうもこの人は僕とちゃんと議論するつもりがないらしい。妙に嫌味だし。何を根に持ってるんじゃろう。それともそういう性格なんだろうか。よく分からない。

*2:僕が男女差別している、というのではありません。陽=男、陰=女と決められている上に、陰は消してしまえというのは女性からしたらむかつくよな、と思ったというわけ。