Under the hazymoon

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現象学?的口伝論に向けて

 口伝なるものの機能についていえば、ある情報を特定の人間の間で秘密裏に共有することで、その集団のつながりを強化するということにつきるのではないかと思います。
 そもそも口伝という伝達形態によって、その思想なり技術なりが「正しい」かたちで継承されるかといえば、そんなことはない、といえるでしょう。なぜなら他言無用であれば、それは伝言ゲームにしかならないので、畢竟その「正しさ」を保証することも検証することもできなくなるからです。
 

 おそらく、口伝を言葉だと考えるところに問題があるのではないでしょうか。そもそも、語りうる、言語化できるものであれば、それは文章に書いてもやはり伝わります。口伝の実体がそのようなものであれば、口頭によるか、印刷物によるかは、組織経営の問題ということになるでしょう。伽藍方式かバザール方式か*1、そのどちらを選ぶのは経営に携わる者の好みでしかないように思えます。
 しかし、僕自身は、口伝の実体は言語化できないコミュニケーションである、と考えます。語学学習などを考えるとそれはよく分かります。メジャーな言語の場合、およそほとんどすべての知識が出版物として手に入れることができるでしょう。しかしでは本を読んだだけで言語をばっちし習得できるかといえば、そんなことはなくって、e-learningなどでなく教師と生徒が対面して同じ空間を共有するこれまで通りのスタイルの方が学習効果が高いというわけです。
 武術については、身体性に根ざした部分が語学よりも高いだけ、なおのこと、直接的なコミュニケーションによる教授の重要性が高いといえるでしょう。まあ語学ほどに言語化された資料もたいへん少ないですし。それでも極端な話、具体的な技については現在ならビデオ映像で独習できますが、いわゆる内功と言われるような内部感覚を基盤とした練功については、文献やビデオから想像がつくことはないでしょう。それができるとすればやはりある程度実践的な経験を積んでなくてはかなわない話です。
 師と弟子が同じ時同じ場所を共有しつつ修練をすることで、そこで目にする光景、耳にする言葉がはじめてその本来の意味を発揮する、それが口伝の価値ではないでしょうか*2
 そのように考えると、これまで口伝と考えられていたものが出版物として公開されたりするのも、単純に組織の経営戦略を転換したのではと思います。もちろん実はまだまだ隠していることがあるのだ、ふははははは、といった可能性もあるでしょうけど、隠そうが隠すまいが、直接に教授されないかぎり真実が伝わることはないからです。
 
 と、まあそのような想定のもとに、中国武術の口伝について少し調べてまとめてみようかと。手元にある資料でも、太極拳や八卦掌について歌訣や口訣が解説つきで書かれていますし。また気になるのが、そもそも本当に口伝・秘伝だとしたら、国術として高校や大学でも教えている現代中国の教学体系はどないなっとるんじゃ?という疑問もあるわけです。いや国術化したせいで失伝したんだよ、といういかにもな結論に落ち着きそうな気もしないではないですが、そんな不出来なものしかできないんだったら国威発揚にならんと思うので、それなりにちゃんとやってんじゃないかと思うんですよね。気功を科学的に研究するような国ですから。ともあれ資料的に基礎づけるところから始めてみようと思います。

*1:http://cruel.org/freeware/cathedral.html

*2:そのような機会を得ることができた自分は縁があってよかったと感謝する次第です。