Under the hazymoon

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認知運動療法と武術の可能性

 現象学の実利的応用として「認知運動療法」への適用とかありますよという話を聞いていて、ふうむと思っていたところ、ちょうど『現代思想』でリハビリテーション特集*1してたので読んでみました。いや、そういや『古武術介護入門』*2とかあったなあと連想したまでのことなんですが、けっこうおもしろいかもしれません。
 

 宮本省三・河本英夫『人間再生のために』*3という対談で、いわゆる生理学での身体感覚とは違う「身体内感」なるものを提示して、次のような意見が交わされていました。

河本 何年か前に大学院の授業で、舞踏家で演出家の勅使川原二郎さんに教育レッスンをやってもらったことかあります。体を動かしていくのですか、その中でいろいろなことをやるわけです。例えば踵を持ち上げる姿勢のときに、そのまま重心を上げていく。そのときに、「踵と床の間に青空を感じなさい」とか、動きなから息を吐くときに、「地下室の扉を開けるように息を吐きなさい」とか、イメージを活用し、それを手掛かりにしなから、体を動かすやり方です。彼のレッスンの難しいところは、自分の体を動かしながら何かの分岐点に来たときに、「イメージしたら駄目だ」と言うところです。「イメージしなさい」ではなくて、「感じなさい」と言う。イメージしたら、外に像を作って、それを手掛かりにして、「ああ、自分はこんなスタイルなんだ」ということを理解してしまう。この手前のところで、今の感じを感じ取りなさいということを彼は言うのです。そのときは、院生はみんなできないようだったから、イメージすることと感じとることの違いを説明してくれと言いました。自分の身体の動きのイメージを作ることと、身体の動きを感じ取るということ、これはどういうことなのだと訊いたら、彼は「う〜ん、難しいね!今日は無理だ!」と言って、それでお開きになりました。それくらい微妙なところがあります。
 多くの場合はイメージのほうを作り、自分の身体の手掛かりとして活用していきます。そういう意味で、身体イメージと区別される、感じ取る身体、ここのところが身体内感だと位置づけることができるだろうと思います。

 
ここで語られている、イメージするではなく感じるという行為は、中国武術の修練においても大切なポイントのように思われます。鏡を見ながら練習するのはよくない、と李老師は言われるそうで、外から見える形よりもその中でどう身体を動かしているかが重要なのは、ちょっと姿勢を正された(と自分には思える程度にしか老師は力をいれてないように感じる)だけなのに、身体にすごく負荷がかかるということでも、ある程度実感できてるように思います。
 このイメージすることと感じることとは、また武術における「神」と「気勢」の問題にもつながるのではないでしょうか*4。武術における「神」はどうも「動き」に関わるものではないかと老師の語られる言葉の端々から感じていたのですが、ここでの対談はその推論を補強してくれるように思えます。先に引用した部分のすぐ後では、次のような応答がなされます。
 

宮本 どうして私がこんなに身体内感に拘るかというと、河本先生にサントルソの認知神経リハビリセンターを訪問していただいて、ペルフェッティ先生と対談したときにもこの話か出て、ペルフェッティ先生か「その身体内感というのはどういうものだ」と非常に興味を持たれていた記憶かあるからです。
 私自身、ずっと何なのだろうかと考え続けているのですか、その中で、先日私も勅使川原三郎さんとお会いしまして、彼の手の動きを見ていて、一昨年イタリアのサントルソで研修しているときに遭遇した一つの美しい言葉を思い出したのです。それは「プラズマーレ」という言葉なのですが、これは動詞で「形作る」、「造形する」、「イメージに具体的な肉付けをする」、「生命を与える」、「訓育する」、「精神を形成する」、「人心の教化をはかる」とか非常に複雑な意味があって、日本語には対応しない言葉です。例えばミケランジェロの彫刻から強い生命力を感じたときなどに、「ミケランジェロは芸術家としてプラズマーレする能力が天才的に高い」というふうに使います。石を彫っていく中で、生命力を石の身体が持つと言えばよいでしょうか。勅使川原さんのダンスもまた、身体をプラズマーレして、動きに生命力を宿らせているのだろうと思ったのです。逆に、患者さんの中には、「自分の手足はもう死んでしまった」という表現をされる方もいます。患者さんに認知運動療法を行なう場合も、麻痺した身体に生命力を与えていく、麻痺した身体をプラズマーレしていく、ここに身体内感というものが位置づけられるのではないかと思っています。
 しかしながら、ここが最大の難関です。つまり、ミケランジェロの彫刻「ピエタ」の生命力は、ミケランジェロが生命を宿したのか、私だちが生命力があると感じているのか。科学的にはただの石に過ぎないわけです。そのときに、物体としての身体をプラズマーレする何かが、人間の生きる身体の最も根源にあり、それを取り戻すことが認知運動療法、あるいは人間再生の究極のポイントかと思います。それはリハビリテーションだけでなく、いろいろな社会文化領域に関わってくるような気がします。
 
イメージと記憶
 
河本 こういうさまざまなやり方を活用しながら、人間再生というテーマを考えると、結局のところ、人間の創造力をどうやって発揮していくか、というところに集約されます。最初に言われたように、脳というのは放っておくとただ惰性になるだけで、絶対に創造力は出てきません。創造力を活用すると言ったときに、「創造力の活用の仕方」という方法があれば、全員が同じ方法で創造的になりますから、これ自体は創造的でも何でもありません。これが創造性のジレンマです。つまり、本物の創造性というのはどういうものなのかということを考えた場合に、簡単に答えられないところがある。例えば、初めて逆上がりができるようになるというのはみんなどこかで経験しています。初めて自転車に乗って重心移動ができるようになるというのもどこかで経験している。そのときに、「ああ、この感じか」という「この感じ」というのを本当は持っています。ところが、これは何度か繰り返して上手くなっていくと、消えてしまいます。「この感じ」を使っていたはずなのに、直ちに普遍化されて、上手くスムーズにできるように構造化されて、消えてしまう。上手くできるようになったら、そんなものをわざわざ手掛かりにする必要はないわけですから、消えないといけない。
 ところが、その感じを心の働きとして手放してしまうと、次に何かを行うときには、「ああ、この感じか」ということを、もう一回創っていかなくてはならない。「ああ、この感じか」と初めてできた経験、これを繋ぎ止めるためには、やはりイメージを運動させなければなりません。逆上がりが初めてできて、「ああ、この感じ」といったとき、もう「抜けるような青空」でよいのです。あるいは自分の脳がどんな形をしていたかという、脳の形を空気中に思い浮かべてもよいわけです。とにかく何かのイメージを思い描いて、イメージと連動させて、繋いで、そこを自分の経験の中に落とし込まないと、やがては消えていくのです。
宮本 例えば、野球選手がホームランをイメージするとか、あるいはサッカー選手がゴールの瞬間やフリーキックの瞬間をイメージするとか、そういう視覚イメージのやり方はあるかもしれないけれども、そういったものを全く別なものにメタファーとして置き換えるということですか。何か言葉なり、別の情景なり、あるいはクオリアのようなものに……。
河本 詩的な才能があると、言語でそこを充てていく。言語で充てていくというのは、その経験を自分自身に獲得するということですから、大きな手段です。その言語というのは必ず詩的な言語になっています。言語でできる人はよいのです。ところが、言語能力にそれを委ねるというのは、やはりなかなか難しいものがあるので、とりあえずイメージです。イメージ化するということは、そのことを記憶の中に確保していくことですから、イメージを連動させて、そこの感じを掴むというやり方は、脳の活動から見ると記憶と非常に近いところにあると考えています。

 
ここでの「プラズマーレ」という言葉が「神」にすごく近いコンテクストを持っているように思われます。またその後で、ある運動の経験にイメージを連動させることでつなぎとめるということを、人間は通常行っているということですが、中国武術における虎や龍のイメージはまさにそうした個人の成功体験の獲得までも技術として体系化していると考えることができそうに思われます。

*1:ISBN:4791711564:detail

*2:ISBN:4260002953:detail Webでもある程度まとまったものを読めるようです。http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2639dir/n2639_02.htmやhttp://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2639dir/n2639_08.htmに始まる連載などを参照。

*3:pp.100-127

*4:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20061116/p1#c1164237715