Under the hazymoon

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馬貴先師の伝記4種

 『曹氏八卦掌全譜』*1には「馬世卿」の語があるのに、伝記部分がすっぽり抜けていて、がーんと思っていたわけですが、何と超星数字図書館の方に収録されている単行本にもさっくり抜けていました。てことはこれはもう読めない可能性大な訳ですね。そりゃ直接知っている人から話を直接聞いた李老師から話を聞けるとはいえ、参考資料として調べておきたいのが研究者の性。
 

 そこで、馬貴先師の伝記資料で、現時点で手元にあるものを参考のためメモしておきます。

  • 金恩忠『国術名人録』、影印(原著1933年の自序あり)、古拳譜系列武術叢書、山西科学技術出版社、2000年
  • 解佩啓「“木馬”独特的八卦掌功夫」、書誌不明、「武門精粹」の一記事*2
  • 張永春「尹氏八卦掌源流与体系(一)」、『 武魂』、1994年4月
  • 精誠八卦会編・李明貴術『馬貴八卦掌』、日本馬貴派八卦掌協会精誠八卦会、2005年

以下その内容を紹介しましょう。

燕京馬貴

 金恩忠『国術名人録』では次のように馬貴先師について語っています。

燕京馬貴
 馬責,燕京人,幼嗜技擊,會拜老武師董海川學藝,復從程廷華深造,蓋董老武師之門弟子,大多爲程代師傳藝,馬精點按術,對於麻竅死穴之術 ,造詣尤深,後於清光緒年間,充肅親王府獲院,難奇不可意測之技擊家,所遇甚夥,然皆敗於馬手,鼎革後,馬仍忠事於清室,誓不二志,民八・友人責以大義,示以愚忠愚孝,本係孺子所爲,我等奇男子大丈夫何必效此,約馬出就武術教官於憲兵學校,斯時江蘇憲兵隊長蘇大鈞,正肆業於學校中,見馬雖白髪蒼蒼,而步履輕捷,望之如二十許人, 異之,值將卒業,諸生戲請於馬,懇老師將縱身上樹之秘法,傳授我等,否則,我等欲施强迫請求矣,特約集二十徐人,各持竹劍本槍,劈刺術之用具,圍而劈刺之,馬手持一竹劍騰挪, 無一器傷及馬之衣履者,馬笑日,爾等技藝尚淺,焉能中我,斯購木擺竹揺,飛舞未已,陡聞人雜嘈雜,喧於戸外,衆遂止鬥,尋聲而往,馬亦隨之,至則校中厨役,與煤店夥友,因口角致爭執,方持扁担向厨役頭上猛擊,馬恐鬧出人命.,一躍而前,亟用二指點夥友之脇,夥友扁担遂舉而不下,移時倒地氣絶,諸生咸驚惶,恐出人命,馬笑日, 爾等勿驚,斯非死也,乃氣閉耳,言已牽其臂膊,只一轉夥友已甦,並付樂方令夥友急服之,於是衆始知馬用點穴法制之,咸中舌欺服,蘇隊長率業後,被撥充南京憲兵司令部副官,曾與王司令建飛述及之,王極羨之,挽蘇赴北京聘馬南下,担任教授,適馬以事不果來,作者於點按術曾習之,惜未成功,按人身有三百六十五穴,有死穴麻穴啞穴暈穴等名稱,點按之可傷可死,在治技者之功夫深淺耳,最通用之穴,凡七十有二,致命之穴凡三十有六,其功夫,分爲點穴,尋經,指勁,透勁等,要之稍通針之炙術者, 則習之較易也,

 どうもこの伝記は他の資料と趣きが違います。まず尹福先師でなく程廷華先師の弟子ということになっています。
書きかけ。。。

“木馬”独特的八卦掌功夫

 記事の主要な部分は内丹の功夫ですが、冒頭と最後に伝記があり、まず冒頭では次のように述べています。

 馬責、字世卿、河北者淶水縣人氏、生干清咸豐六年 (即公無1856年)、故于一九四一年、享年八十五歲。在京居住子朝陽門內大街斜街胡同、以開永義木器廠為生、后又經營營造業、因此、人稱為“木馬”。馬先生自幼即好武成癮、為人乗性剛毅、助人為樂、仗義疏財、為武術事業慷慨解囊、十八歲拝尹福先生為師。馬先生聰明伶悧、能下苦功夫、下大功夫、又受到師祖董公親傳。董公教人量物作截、因馬貴個子矮小、傳給蟹形掌,(即螃蟹掌)。自此練螃蟹、愛螃蟹 、畫螃蟹、人稱為“螃蟹馬”。功夫大成后、人送外號賽金剛滾地雷馬貴、馬先生鍛煉基本功夫與衆不同、他鍛煉泥球、由小泥球慢慢加大、小的一二十斤一個、大的六七十斤一個、練法有抓泥球、捏泥球、掐泥球、揉泥球、抖泥球、滾泥球等。
 散打技擊以五絕為基礎手法(即肩肘腕胯膝五大關節為手)、 轉掌走式以矮小為主。他能在八仙桌子下面轉八卦掌。掌法靈巧剛柔快進、發勁講冷脆快、穏準狠。
 養生延年益年功夫……

 次いで、最後の部分では、

馬先生所傳內外功夫外練形體剛健柔順、內練丹田氣足。又講十大力法,剛力,柔力,上方力,下方力,左側力,右側力,前進力,后退力,外明力,內暗力也。
蟹形八式為: 横臂式,滾腕式,抖打式,頂肘式,小臂搧打式,化御式,撞打式,擴打式。
李景林,商震兩位多次聘請馬先生出山,民國十八年為河北省武術武術館顧問,速成科主任,負責武術功夫的速成傳授。

と述べています。
 この間には、馬貴先師の内功について述べられています。ぱっと見、中身はまんま内丹です。うふちゅん人さんはこれは勝手に入れたものじゃないかと推測されていますが、僕はそうとは限らないと思います。まずタイトルが「功夫」とあるので文章の核心はこの内功のところにあって、前後に伝記的資料を足したという構成で不自然ではないでしょう。内容は確かに僕たちが習っているものと違うようにも思えますが、これはあるいは段階的な問題で、初学者には教えていないのかもしれません。 というのも、李老師は修練を積んでいけばそのうち八卦掌の求めているものと内丹とは全く同じだと分かるでしょうと言われたことがあります。そのように言われるということは李老師が内丹についての知識を持っていることは間違いないわけで、走圏という修行法は変わらなくても、レベルが上がると解釈が変わり、先々内丹的な解釈をもって理解がより深まる、ということがあるかもしれない、と思っています。
 研究者としては、自身が出来なくても歴史的な変遷に興味がありますので、こうした文献を一方で参考にしつつ、もう少しきちんとしたお話を一度聞いてみたいと思っています。自分ができるまで待ってると論文一本書くのに10年とかかかりそうですもん。それではやっていけない業界的現実が。。。

尹氏八卦掌源流与体系

 これはネットで拾ったものなので原文未読です*3

馬貴,字世卿(1857-1941),河北淶水縣人,祖居北京。身材矮小,兩臂過膝,體態寛厚,不擅言語。以開永義木器廠為業,人稱“木馬”。后世以其武功出眾與董海川另一弟子馬維祺齊名,并稱“二馬”。因喜畫蟹,并樂以畫贈人,故又有“螃蟹馬”之稱。十八歲拜尹福為師,并得師爺董海川親授,故而造詣頗深。走轉掌式子低矮而發勁火爆,擅長判官筆、七星桿、子午鴛鴦鉞等器械。精通點穴,好技擊,尤以直臂腕打見長,曾以一招切腕將瀾公府一武師臂骨打折,而名震京師。民國元年,出任總統府武職教官。民國八年(1919)任憲兵學校武術教師。民國十七年(1928)河北國術館成立時,被聘為顧問。一生點撥學子眾多,卻從不深授其徒,同門人皆稱馬貴“吝于傳藝”。1937年吳圖南先生在其著作《國術概論》一書中記述:"馬貴除師承外,兼得海川指示,故于八卦拳術頗多獨特之妙,惜乎以技自秘不肯授人,......雖年近八旬,而更絕憐其技,故其困守平市,不亦宜乎?"言詞間贊其技藝之精,嘆其守秘不傳之憾。馬貴一生因嗜武而不治生產,終至家業敗落,晚年生活孤苦,常因一餐果腹而奔走于親友之間,令人嘆息。

書きかけ。。。

馬貴派の伝承

 同書は会員向けのテキストなので、ここではその抄録にあたるネットの記事を引用しておきます*4

『馬貴先師』(1857−1941)
字は世卿、祖居は北京で体格は小さく痩せていたが両腕は膝にとどくほど長かったという。初め尹福の拝師門徒として学習を開始するも、後に董海川により衣鉢弟子として育成される。故にその内在する精・気・神と体形動作はまさに董海川と相同じであった。その技は腕打・蟹形下盤掌が夙に有名である。晩年は貧困に倒れたが、その困窮を救った義侠の人李少庵と劉万川にその功夫は伝承された。

*1:http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?txt_docid=NCID%3ABN12858123

*2:うふちゅん人さんから教えてもらいました。http://blog.livedoor.jp/ishigaki_happohiken/archives/50304231.html 参照。

*3:http://www.wszl.czm.cn/mjmp1/bagjj.htm やhttp://72.14.235.104/search?q=cache:MAdjXOBKPdAJ:e-wulin.com/news/screen.asp%3Fx%3D2043+%E8%A7%A3%E4%BD%A9%E5%90%AF%E3%80%80%E6%9C%A8%E9%A9%AC&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2 を参照。

*4:http://www4.ocn.ne.jp/~hakkesho/kigen-new.htm