Under the hazymoon

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リハビリとしての練功

 といっても、リハビリテーション八卦掌を使うというのではありません。体験の記述と分節化の問題です。
 

 丹田や気血や筋のはたらきや、それで変わっていく身体について、どういう方法なら記述することができるのか。ハビトゥスとかなんとか社会学や人類学的な概念は学びの構造を記述するのには有効だと思うのですが、自身の変化を語るのにはあまり適さないと思います。で、その方法として当面思いつくのが、一つは、MRIなど医学的に数値測定する方法です。一つは、先に書いた現象学認知療法のコラボ*1にもとづいた分析です。前者は好奇心から人体の神秘ブラボーみたいな感じで非常に知りたいんですけど、後者はもっと学術的な興味、僕自身の専門である中国哲学研究にうまく接続できるんではという期待があります。
 考え方としては、修行の大成者(武術の達人)を健常者と見立て、僕ら初学者を、健常者では当たり前のことが何故かできない障碍者で、そこへ戻ろうとリハビリしている状態であると、逆転させて設定してみるというものです。現象学認知療法が言語化しがたい経験の橋渡しをできるのであれば、この場合においても効果を発揮するのではと期待するのですが、ちゃんと検討してみないと何ともいえません。現時点では僕の妄想にすぎないわけで。
 でも、修行の大成者を聖人と考えれば、実はこうした逆転の見立ては、中国哲学の基本的な思考法に沿うものだといえます。何となれば、人はみな聖性を内に秘めて生まれてきても、現世の汚濁に穢されて本来性を発揮できていない、と儒仏道三教のどれもが説いているのですから。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20061030/p1