Under the hazymoon

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理想の身体はまだ遠い

 今日は練習初めでした。年末年始とゆるみまくっていたのがたたって、非常にしんどかったです。
 練習後、新年会だあと思っていたら、不良グループの出席率が悪く、お流れに。さすが不良!(違 美食クラブに会名を変更予定だったのがいけなかったんでしょうか。夏目さんにくっついてってカラオケもええなあと思ったものの、今日はスーツ着用だったので断念して、駅前の陳麻家で麻婆豆腐食べて帰りました。花椒使ってなかったし味がおとなしくって、名前負けでしたね、そこ。
 

 少しまじめに考えると、しんどかったのはただなまけていたからというのではなく(それもありますが、まあそのあのいつもことなので。。。)、またちょびっとだけど進歩したのかもしれません。というのも身体の主に痛いところが前と変わって内太ももになったんですね。すね→ふくらはぎ→内太ももといった感じで推移してきています。足裏は最初の頃まず痛くなって、推移する過程できつくなったりきつくなくなったりといった感じです。やっていることは走圏一つですから、その時々での自分の進展具合に合わせて遠藤老師が教えてくださった結果ということになるのだと思います。
 特定のところが特別痛くなりだすと、ならないはずの筋肉痛になって翌日あたりまで痛みを引いたりします。バランスよく身体を使えてないために力が入りすぎて筋でなくって筋肉を使ったため、ということなのかもしれませんが、僕の場合、そもそも身体ができてないふにゃふにゃぼでーなので、筋の鍛錬に必要な筋肉をつけるところから自分の身体がはじめているのではないかと思っています。
 痛くなるのは気が滞っているからだ、と教わることが多いわけですが、見方をかえると、そこのバランスがとれてないために負荷が強くかかってしまうということなのではないかと思います。意識して気を通るように練習すると痛みがなくなるというのは、だからその部分が鍛えられて強くなりバランスの悪さを解消できるようになるからではないでしょうか。
 走圏の目的は、気の質を高めるだけでなく、総量を増やすことも重視されているので、僕のイメージとしては、今後練習を続けていくと、今度は別の場所が痛くなり、更に続けて痛みがとれ、たと思ったらまた別の場所が、おや今度は最初に痛かったところが、と順繰りに身体が鍛えられていくのではないかと思うのです。一気に全身がきしむように鍛錬するのはきびしいのと、現実問題人間の身体はたいていバランスが悪いので局所的に修正を加えていくことでしか全体のバランスを回復できないだろうという、理に適っている考え方であるように思います。
 走圏の鍛え方というのは、一般的な筋トレのように特定の部位を決め打ちして鍛えるのではなく、理想的な身体の姿勢をとらせることで、その姿勢をとるために不足している部位を身体の方で勝手に鍛えさせる、身体に聴くトレーニング方法なのでしょう。このへんもう少しうまく言語化したいなあ。
 もちろん、そもそも内太ももが痛くなること自体が間違っている可能性もあるわけですが、O師兄と休憩時間中に太ももが痛いんですと話していたら、堤肛吸袴すると内太ももから外ふくらはぎを経由して踵に力が落ちませんか?とのお返事が。確かにそういう感触はあるので、方向性としては間違ってないのだなと安心しました。
 しかし姿勢そのようにきちんとして力が足まで落ちるようになったら、平起平落して踢門坎しないことには前に進めないんじゃないかと思います。つまり本来人間が持ち得た理想の身体(=自然な身体=道にのっとった身体)であるならば、実は個々の要求はどれも必然として体現されるのです。だけれど、一般の身体だとそうはいかないので、理想の身体における自然な動作を模倣していく修行を積む。そうした作為的な操作を経由して、その動作を行うことが自然な身体へと自らを変えていく。まさに返本還源の道、ということでしょうか。