Under the hazymoon

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真の呼吸は不空不色

 先週の霊学研第12回例会では、前回に引き続き陳攖寧「黄庭經講義」の翻訳を発表。でも間に合わずぐだぐだに。すいませんでした。で、ぐだぐだのままのレジュメを一応アップ*1。時間をつくって直さねば。
 

 ところで、最近フィールドワークをやっているせいか、こういう文献を少しばかり実感をもって読めるようになった気がする。もっともそこに引きずられてはいけないわけだけど、前より立体感がでてきたことはいいことかもしれない。まあ論文の手前なら与太をとばすのは手慣れたもんですから(違
 お!と思ったのは次のくだりです。

呼吸を調える最も重要な口訣とは、形有るものにとらわれてはならないし、またよりどころをなくしてもいけないというものだ。(呼吸が)虚無と合わされば、姿をあらわさない。丹田に入れば、よりどころをなくさない。色でもなく空でもない、忘れもせず助けもしない。これが真の口訣である。

ここ、一読すると抽象的なことを言ってるようにも読めるけど、実はかなり技術的なことをきちんと述べていると理解できると思います。前の方で陳攖寧は、理想的な呼吸法は胎息であるとして、「細く長く」かつ「ゆるやかで深く」息をするようつとめ、最終的には「鼻で息の出入りを感じなくなって、呼吸が完全に停止」するまでになるのだ、と述べています。この呼吸をしているかどうか感じない状態、というのが虚無と合わさって、姿のない、色でなく、助けることをしない呼吸、でしょう。そしてそういう呼吸がなされるのは黄庭、丹田においてなされます。それがよりどころをなくさず、空でなく、忘れない呼吸、でしょう。つまり、吸ったり吐いたりを意識しないような呼吸により息を丹田に通す呼吸、が陳攖寧の目指す胎息の呼吸ということになります。
 で、この条件を充たす呼吸が他にないかと考えてみれば、八卦掌の走圏はまさしくそのような呼吸を行います。まあ八卦掌は内丹由来ですから、当然ですが、こうして確認できるというのはおもしろいです。そして、前に指摘したよう密息も同じ呼吸法と言えますので*2、ここで語られている思想と技術は内丹だけにとどまらない広がりを歴史的に有している可能性が高いと思います。このあたり、きちんと論じたいものです。

*1:http://lingxue.g.hatena.ne.jp/nomurahideto/20070222/p1

*2:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20070202/p1