Under the hazymoon

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デッサン、方便、強度

 今日は前半はひたすらDo!熊でした。掌法はいよいよ帯手に突入です。遠藤老師からは具体的な指示でなく、型をどんなものとして考えるか、その指針について包括的なお話がありました。
 

 しばしば日本人は型を習うとそれを絶対的なものとしてミリ単位で正しく行おうとする傾向にあるけれど、型を習うことは絵を描く上でのデッサンのようなもので、最初はおおまかに全体の配置を定め、しかる後につめるべき細部はつめていくものだとのことでした。いきなり部分を細密に描き出すと目は目で正しく、耳は耳で正しく描けたとしても、顔全体はちぐはぐなものになってしまうとの由。うーん、身につまされます。八卦掌の練習に即して語り直せば、ようすれば、重要なのは意と気であって、型はその表現でしかない、つまり意念をもって気を充実させるために型を学んでいるのであって、型を正しく行うために型を学んでいるのではない、とのことでした。前にも書きましたが、八卦掌の要求は完成された理想の身体をトレースしているので、気に満ちあふれた身体がひとたび動けば自然とそういう型になってしまう、のだけれども、初学者の身体は到底その域には達していないので、型を模倣することで自らの身体から気を引き出すわけです。つまりあくまで方便。
 走圏しているときに遠藤老師から、だいぶ要求が出来てきました、次は気血を高めていくよう練習しましょうと言われました。高いところにのぼるためにはしごを作っても、作っただけではのぼったことにはなりません、一歩一歩のぼっていくことが大切なのです、との由。上述の型と意気の関係についてのお話ですが、のぼってしまえば、そこまでのはしごはもういらず、更にのぼるためには別のはしごを、と方便の話でもあるなあと思った次第です。もちろん、型のことはもう気にしなくていいということではなくって、更にオーダー追加で〜すといった感じ。身体が型をある程度覚えてくると、意識を別のところにまわせる余裕ができたということでしょうか。
 ところで、気血を充実させたり、気血を高めたり、という言説については、オカルトよろしく気は実在するんです!とかファンタジーよろしく超サイヤ人2!とかそういった理解はしておりません。気血にしろ筋骨にしろ、基本クオリア*1みたいなもんで、感触、身体内感として実感するものとしてそこにあるのであって、それ以外ではないと考えて何ら問題はないだろうと思っています。つまり「丹田に気血を充実させる」という内容は、実は気血という言葉を使わなくても表現できて、それは「丹田が充実する感覚を持つ」と言ってしまってよい。何が充実してるかは問題としなくてよい、というかそこに問題の本質はない、のです。外見上同じ型であっても内側の充実、強度が異なる、そのように練習するというのが大切だということにつきるのでは。オートポイエーシスとか気になるのは、こうした中国武術の修行理論を客観的に記述できる可能性があると思うからなんですね。また、もちろん気がそこにあると擬制することの積極的な意味も考えてみなくてはいけません。このあたりフィクション論にならんかな。。。

*1:最近の茂木健一郎さんの動向をみるに、この概念も微妙といえば微妙だけど。