Under the hazymoon

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現代の儒者かくありき?

 ロハスな人文研究者とプロフィールに書いてますが、ネタですから。僕自身は伝統的な古典中国学(=漢学)からすると傍流もいいところの研究をしているわけですが、儒学的思考に納得するところは多かったりします。「修身治国平天下」みたいな『大学』の八条目とか、高踏的な哲学理論は無理でも、世間知としていまなおいきづいている事例をみつけることは難しくありません。
 

 世間知の理想型としての儒学的思考、というのは案外いけるんじゃ、とも思っています。もちろん世間知の、と言ってることの裏返しは、実務レベルでは、現代の国家や社会の経営の理論においては、これを持ち出してはダメだよなという理解です。
 儒教は士大夫のものでした。現代日本において、その士大夫にあたるものを有識者、と考えていたら間違いじゃないか。昔は読み書きできて政治に関与できる人間は限られていて、それが士大夫。だから現代日本における士大夫とは、選挙権を持つ国民すべてがそうだと言えると僕は思います。みんな読み書きできて一票という権力をちゃんと持っているんだから、実はすでに儒教的思考のユートピアは現代日本において実現されている、そう思った方が事態を正確に捉えてるのではないか。だから世間知を正当化し肯定するために儒教的思考を考えるのがいいかなと。いや今の社会問題いっぱいあるじゃない、といくらでも言えますけど、でもそうした問題解決への取り組みは、儒教では実際の役に立たないでしょう。自然科学や法学や経済学やそうした知を元に技術や社会を組み立てて問題解決する以外の実務上の選択肢はないんですから。だからそこはもうスルーして無理に儒教的思考で何か言わなくてもいいと思うんです。昔の儒教は総合学でしたが、倫理の部分、人の心の部分しか学知としての領土はない、そういう現実だし、それで不都合でしょうか。
 で、そうなると、大切なのは思考実験としてなら好き勝手言えますが、もし儒教的思考をもって世に問おうとしたら、何よりもまず、自分がそのように行動しているかという自己反省抜きには語るべきではない、と思うんです。ここはいくら強調してもしたりない。だって「修身治国」って言っておいて、自分が実践できてないのに社会に対して発言するのは、思いっきり矛盾しています。いや研究者だからいいんだ、と開き直るのはずいぶん虫がよいと思います。少なくとも儒学を標榜するのであれば、です。自分にできないことを人におしつけちゃいかん(己の欲せざるところ……)、と孔子先生も言われてます。
 
 そんなわけで、僕は全然環境にやさしくない生活を送ってるので、ロハスから遠いわけです。本をばしばし購入し、資料をばしばしコピーしてますし、僕自身はそうするしかないんで。ロハスな、てのがネタというのは、まあ人文研究者としての自分のうさんくささを自嘲したまでのことです。そんな自分が大好きですが。
 で、何でこういうことを書いているかというとですね、いやほんと、言ってることとやってることが齟齬している儒教研究者って、論文ではえらそうに書いてるけど、ちょっとなあ、ってことなんです。ええもちろん実体験ではありませんとも!思考実験です(爆 でも考えてみれば、その有りようって、思いっきり笑い話の道学先生とまったく同じで、皮肉にもそれ自体すぐれて現代の儒者だよなと思うわけです。これ、儒者の部分を哲学者におきかえても成立しますね。やはり文人は萌えるもので成るものではないな、と思うのでした。