Under the hazymoon

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言語論としての正名や春秋の筆法

 繁露研究会で「観徳第三十三」を読んでいます。内容は、天に星々が北極星の周りを秩序だってめぐっているように、地には人々が天子の周りに秩序だって並んでいて、その爵位は天より賦与された徳の高下によって秩序づけられている、というものです。それを実践しているのが『春秋』のこれこれこーゆー記述、はたまたあーゆー記述。。。とあれこれ事例を引いて公羊学してくれてて、昔だったら儒教的レトリックおなかいっぱいです〜と受け流すところなんですが、今さらはたと気づいたことがありました。
 

 董仲舒が同篇中で言及している筆法の具体的なテクニックはというと、

  • 見たものから順に書く
  • 聞いたものから順に書く
  • 自分に近い(親しい)ものから重視する

といったもので、これってよく考えてみれば、古漢語(あるいは現代中国語もそうじゃないかしらん)の文章構造の基本なんですよね。前にも書きましたが、漢文は相当ビジュアルな、ビデオカメラで撮影しているかのような書かれ方をしていて、文脈を読み取る際の基準にしてるんですが、ここで言及されている筆法のありようはまさにそういうこと。
董仲舒は深察名號篇などでは、正名の問題を論じています。天が万物に賦与した性質を読み取って聖人が名付けたものが名前である、といったような言霊信仰めいたことを言ってるんですが、これもまた漢字の成り立ちと相応していると考えることができるでしょう。
してみると、実は、董仲舒のいう聖人とは、読み書きが的確に行えること、といういたって地味な要件に落ち着いてしまったり。現代においては、ライティングとメディアリテラシーの問題ということになるでしょうか。むろん、意外とそれは難しいわけですが、自分に近づくにしたがって重力で歪むことは織り込み済みですから、そこを常に自覚していれば、実はあんまりきびしい要求でもないわけです。玄学を経て宋学において聖人学んで至るべしと転換する契機はすでにここに孕まれていたと考えるのは、そんなにうがちすぎではないかと思うのですが。先行研究をひもとくと、そういうことはすでに言われてたりして。うひー。そんな気がする。でも書いちゃう。