Under the hazymoon

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やっぱり双修?

 霊学研で、前回に引き続き陳攖寧「黄庭經講義」の翻訳を発表。調べ切れてないけど、まあ何とか。アップしたのは口頭で訳した部分も落とし込みました*1
 

 「致虚」といってもこれは枯坐頑空じゃないよ、と陳攖寧は言います。これまでの内丹修行を補佐する方法としてこれがあって、呼吸によりそって行うのである、と。座禅を否定する文脈からするとこれが陳攖寧の理解する「真の」明心見性の実践ではないかと思われます。で、行ってるのは何かというと、神を寂然とさせることで、五臓六腑を内観する、みたいです。気の巡りをよくするために身中の汚れを落とす、ということなんだと思います。それが見性の意味、ということであれば、僕は非常に納得できます。これまでの内丹研究では、修行の中に禅が組み込まれているとするとき、その明心見性といわれる技法の具体的な内容と意味は何なのか、先行研究では割に華麗にスルーされていたように思われて、僕がずっと引っかかってたのです。陳攖寧の解釈がむしろすっきり腑に落ちます。
 それからこの「致虚」の解釈において、さらっと李涵虚の言を引いています。彼は男女双修を行う西派の創始者とされてるんですよね。やはり陳攖寧は双修をやっていて、その前段階として清修を言ってるんじゃないかという疑いが強まります。
 別の人の発表によれば、陳攖寧の友人がチベット密教僧と修行法を語りあったところ、チベット密教の双身法と内丹の双修法はだいたい同じだという結論になったと。やっぱやってるんじゃよー、一般向けにはそれこそまさに口訣にして公開してないだけなんじゃよー。。

*1:http://lingxue.g.hatena.ne.jp/nomurahideto/20070705/p1