Under the hazymoon

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翻訳における雅俗の問題は古くて新しい

 内輪の学会*1に出てました。午前は院生、午後が基調講演。最近、近代のことをやり始めたこともあって、どの発表もだいたい関係があっておもしろく聞きました。
 

 発表の中で、特に気になったのは、霊学に興味があることもあって、尾崎さんの厳復の『天演論』をめぐる翻訳の問題に関する発表でした。その翻訳過程に注意しながら議論を行うのはよかったのですが、どうも出てくる結論が過程を考慮しなくても同じっぽい話で、それだと単に調べて満足で終わるがいいのか?という問題がもとよりあったわけですが、翻訳論理解についても何だかなという点がかなりありました。
 厳復が翻訳に要求した「信・達・雅」の三条件は近代翻訳論の先駆けになったようなのですが*2、発表ではこれをきちんと定義してなかったので聞いていて、頭をかしげることがしばしば。正しい訳、分かる訳、きれいな訳ということかな、と勝手に思っていたら、厳復は「雅」を重視していたし、その師匠の呉汝綸は「真を失う」方より「雅潔」を選べと言ってる、だって桐城派なんだもの、だとか。えーっと、しかし配付資料にあるテキストを読んだ限りでは、もっとも重視しているのはあきらかに「達」なので、何だか話の平仄が合わないなーと首をかしげることしきり。引用したテキストについて、誤訳や不十分な訳が多いので、そのへん合わせて指摘したら、開き直られて議論にまるでならなかった次第。
 仕方がないので、自分で調べてみることにしました。議論に関するテキストは全部ネットに転がってたので助かりました*3。で、原文を通して読んだ限り、やっぱり「雅」を、単に美しい文章表現を志した、という理解ではちょっと見当違いですねえ。分かりやすいところを引用すると、配付資料に、『天演論』の自序を引用して

《易》曰:“修辞立诚。”子曰:“辞达而已。”又曰:“言之无文,行之不远。”三曰乃文章正轨,亦即为译事楷模。故信达而外,求其尔雅,此不仅期以行远已耳。

とあって、最後の一句を訳さずに、「信・達以外に雅を求める」といったような訳でまとめていて、おいおい最後の一句が肝心でしょと思った次第。ようするに雅を求めるのは美しいからではなく、まず「行远」、広く読まれるためであるのだと。そして何とさらに原文はこう続いていたんですよね。きちんと引用してくれないと困ります。

实则精理微言,用汉以前字法、句法,则为达易;用近世利俗文字,则求达难。

高度な思索内容が「達」をなす、きちんと伝わるためには、古い文体が新しい文体よりも向いている、と厳復は述べてます。厳復は「信」、原文に忠実な訳よりも、「達」、内容が分かる訳を暫定的に重視することを言い、そのためには原文から字句を削ったりして前後の文脈で整合性を取ったとしています。つまり、「雅」は美文ということで重んじているのではなく、内容の伝達を重視する「達」のため必須であるという認識なんですね。師匠の呉汝綸の「真」よりも「潔」を重視する立場も、同じ意識でしょう。だって西洋の学識を中国に輸入するために翻訳しているのに、文章の美しさを内容の正しさよりも重視した、なんて平仄合わなすぎでしょう。伝わる文章のために逐語訳の不自然さを整えましょうという意味だとすればなるほど納得です。これは、現在においても学術論文が会話調(「雅俗」で言う「俗」ですよね)で書かれたりしない(あっても非主流である)ことと同じ立場をなすもので、まあ確かに審美的要素はありますが、ここでの美は芸術的な美ではなく真理的美なわけです。
 このあたりの感覚が発表にはまったく欠けていたわけですが、しかしこんなこともう誰か言ってるんじゃないかしらん、と思ったら、そういう論文がやっぱりありました*4。議論に引っかかりを覚えるところがないではないですが、やはり指摘済でしたか。
 で、その論文を読んでびっくりしたのが、故中下先生の1979年の論文を引用して、厳復が

「中国従来の政教」と「聖人の精意微言」を意識的に区別している

ことを早くから指摘していた、と書かれていたことです。やべ、手のひらの上の孫悟空状態だー。この時期の「創造された古典」の議論については、ここ十数年でようやく文革レジームを脱して行われるようになった議論だと思ってたんですが。うひー、ちゃんと読まなきゃ。というか、相方に論文にまとめてもらおう。

*1:http://bunbun.toyo.ac.jp/chutetsu/19thgakkai.htm

*2:http://nikka.3.pro.tok2.com/cino.htm

*3:http://rwxy.tsinghua.edu.cn/rwfg/ydsm/ydsm-qw/00104/000.htm

*4:http://www.nuis.ac.jp/ic/library/kiyou/3_ou.pdf