内丹ツンデレ派
べ、別に普通の男女の交わりなんかじゃないんだからねっ。
と書くと、どう読んでもエロ妄想なんだけど、実際そんな内容なんだから仕方ありません(^_^;)
そう、陳攖寧の『黄庭経講義』の訳がようやく一区切りついたのでした*1。ちょっと論文にまとめておきたいところです。んで次回以降は孫不二女丹にとりかかります。もう少しペースあげないと。
この章では「断欲」と題して、男女の交わりを禁じ精を漏らさないことを強調しているように一見読めるのですが、どうも実際は前の章について述べたように*2、そうした禁欲的な個人修養の先に双修的なものを予定しているとしか読めないような内容になっています。つまり、精を漏らさないような、普通の男女の交わりでないものなら、ヤってもいいんだ、ということでしょう。そんな風にするのは仮想的にしているようなもんで、あからさまに儀礼としての交わりです。おそらく瞑想的な技術が伴っているはず、なのですが、そこは書いてくれないんだよなー。マジ口訣というやつでしょうか。ツンツンばかりでデレないよー。
ここには夫婦の交わりは子供作るためという大前提があって、遊びの交わりという設定がありません。しかし商売としてやるのはあった訳ですから、そういう楽しみも追求されていたはずで、ここでは夫婦なのに、あえて作らないというのがポイントなのかしらんと思ったり。しかし夫婦の営みといっても、2号、3号当たり前ですからねえ。読者投稿には夫婦で修行したいんですけど、とかそんなんもあったし、よく分かりません。この頃は自由恋愛の思想もキリスト教的一夫一妻愛の思想もすでに入ってきてる訳で、そういったことも押さえつつ考える必要がありそうです。