Under the hazymoon

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起式を慢錬してみると

 站樁って起式を慢錬しているということではないのかしらんと妄想してみました。
 

というのも、id:ixima師兄が練功を站樁-慢錬-明勁と三つのレイヤーで切り分けられていて*1、走圏を慢錬と位置づければ、なるほどと思うところがあった次第。

 形意拳の祖先といわれる戴氏心意拳は、タントウがなく、慢練が中心。形意拳は、慢練がなくタントウと明勁の練習が中心。

 個人的には、隠すポイントが違ったのではないかと思う。戴氏はタントウと明勁を隠し、形意拳は慢練を隠した。妄想かもしれないのだが。

落とされたものを隠すポイントと考えるのか、残されたものを重視するポイントと考えるのか、という問題はあるかと思いますが、妄想に触発されて僕が妄想したのは冒頭に書いた、站樁=起式(と停式)の慢錬という考え方です。
 例えば孫禄堂の『太極拳学』『形意拳学』『八卦拳学』ではどれも起式を「無極学」として内丹的な位置づけを行っています。これを言葉遊びとして考えるか、気功的な修行実践として考えるか、僕は後者として考えた方がよいと思います。『拳意述真』でも練功の開始と終了を重視していましたから、本気だったでしょう。
 すでに書いたような気もしますが、以前、李先生に誰かが太極の思想と八卦掌は関係があるかと尋ねたとき、「関係ない。強いて言えば最初の何もしない姿勢が無極だ」といったようなお答えが返ってきて、ずいぶん近代的な解釈だなあと思ったことがあります。しかし、神秘的な要素がある、というのは、そこに何らかの意味を見出している、ということなので、確かに現代の僕らが実際に練功するときにどこまでそういった言説に乗っかるかということはありますが(個人的には乗っからなくていいと思うし)、思想史的な研究としては重要なポイントでしょう。
 もっとも、やっぱり僕はもっとラディカルに站樁にしろ走圏にしろアイソメトリクスなトレーニングという理解でいいんじゃなかろうかと思います。意・気・力(勁)の問題も、(日常意識していない部位にあえて)意識したところに身体内感が感じられるようになると力が発揮されるという風に言い換えて問題ないように思うんですよね。。。最近ますます武術における気の問題って客観的な記述としては身体内感に収束するんじゃないかしらと思うようになってます。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ixima/20070801#1185970958