Under the hazymoon

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教えないのには訳がある

 リーズブートキャンプもとうとう9日目。今日は88式の総復習、いくつかの動作の単操、龍形走圏、探掌の母掌、探掌5種、熊形走圏、と今回の講習会の総仕上げの感がありました。いや全然仕上がってないんですけど。あう。
 

 曇りだから88式から始まりました。最初に李先生がホワイトボードに「88式名称」と書かれていて、おおついに教えてくれるのか、と思っていたら、その次には何も書かれてない。李先生曰く、套路の各式の動作を知りたいという人は多いでしょうが、同じことは先人も考えていて、これを編み出した董海川に尋ねたんだそうです。すると董海川は簡単な一言で套路の名称を教えました。「不告訴你」(教えないよ)と。つまり、套路の動作一つ一つの名前を知ってそれを記録すると、それで自分がその技を出来たように思って、練習しなくなって忘れてしまうおそれがある。自分もそういう経験がある。だから半年後、次回来られたときということですね、に教えましょうとのことでした。
 というのも、そもそも武術になかんずく実戦を考えればそこに套路があるはずもないわけです。套路とは武術家その人の武功の練度や理解度を示す一つの表現で、もしある人が自分が長年練習して習得した技をつなげて一連の動作として表現すれば、それが套路になるとの由。そして88式は董海川その人が編み出したものですから、現在の僕たちではまだとうていその技ができているような状態ではないわけです。一つ一つの式を単操として練習して、できるようになって、はじめて各式の名称を知ってよいということでした。で、88式の各式は八卦掌の掌法から抜き出して構成したものだから、掌法の各動作につけられた名称が、そのまま88式の名称になるんだとか。なるほど〜。
 で、実際のところ、88式を日々どのように練習すればよいか、講習会後に伺ったところ、本来的には1,2週に一度通しで練習する他は各式のいくつかを単操として練習するだけでよいそうです。しかしそれはきちんとできるようになってからの話で、現在の僕たちでは当然毎日復習しなさいと、練習は多ければ多いほどよいのだと、まあそういうことでした。走圏の他に、左右1セット×2は毎日、ということでしょうね。
 単操は88式から探穿掌の変化を二つ、それと切掌から大鵬展翅へつなげるやつを。探穿掌の変化についてはパターンが二つあるなーとはうすうす気づいていたのですが、それは大きな球を持つように連続して打つのと小さな球を持つように連続して打つのとでした。球を持つようにするのは、両手を連動させて間断なく相手を攻撃するためだそうです。なるほど!
 走圏のとき、李先生に肩と親指の部分を直されました。ねじりはだいぶましになったそうです。もっと全身に気をめぐらさないといけません。おっと、スピ解釈じゃないっす。気を回すとか日常使いのそのレベルの話です。で、この日常使いの言葉の中にすべてがあるような。

はじめてのそうけん その7

 李先生によれば、教えることと教えないことをきちんと分けられているのだそうです。武術の練功の真理を示す次のような言葉があるそうです。

立鼎除内傷、(鼎を立てて内傷を除き、)
炉中探陰陽。(炉中に陰陽を探す。)

鼎や炉は身体のことを指します。道教の内丹でよく使われる表現ですね。鼎を立てる、つまり含胸亀背下端腰といった身法によって身体の中正を保つことで、まず気血が充実し、身体の諸問題が解決される。そして、その上で、身体の「陰陽」を探求するとのことです。「陰陽」とは、上-鬆と下-緊、外-鬆と内-緊、胸-鬆と背-緊、上-柔と下-剛などといった組み合わせです。
 そして「除く」ことは師による指導が可能だが、「探す」ことは自分自身がその体験の中で行わなければならないと李先生は言われます。力を抜けと言われて抜けるか、ということなのでしょう。それは教えることができない。しかし、身体の姿勢がどうあるべきかは外から見て修正ができるわけで、そこを教えることによって、後はがんばれよ、と。実際、この方が具体的かつ普遍的な指摘が可能になるように思います。なぜなら気持ちのもちようとか、意識のありようとか、力の抜きようとかは、個々人の中にあるもので、外から見てそうと分かるものではないからです。この明晰に分かるところを問題にしようという考え方は、そのベースに精神と身体は別のものではないという身体観に根ざしたもので、きわめて伝統的なものなのでした。おもしろいなあ。