Under the hazymoon

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共生思想とサブカルチャー(承前)

 職場のニューズレターに以下の小文を書きました*1
 

共生思想の周縁

 共生やエコといった言葉は、すでに現代社会のあちこちで流通してしまっている。最初に主張した人はもちろんいるけれど、だけどそこからきちんとした学問体系が構築されてそれが、というよりも、流行語やスローガンのように現代社会で共有されている問題意識のラベルとして広まったというのが実態のようである。そういう状況を前にして、共生思想と言ったりエコフィロソフィと言ったりしてみるのは、空洞のままの中心に芯になるものをしっかり入れようというきわめて困難な、しかしすぐれて実践的な、学術的挑戦だと言える。
 もちろん、大きな物語を語ることの不可能性が取り沙汰されるようになってずいぶんたつことには留意しておくべきだろうし、たとえ物語をアーキテクチャに置き換えたところで問題が解決されるかどうかは疑問である。あるいは、大きな物語を語ること自体が問題なのではないのだろう。その語り口がどれだけ細やかであるのかが問題なのだ。一人一人の問題をそれとして向き合い、昔へ未来へ現在へと一つ一つ丁寧につなげていくこと、その結果として大きな物語ないしアーキテクチャとしての共生が立ち現れてくることを期待するしかない、そう思う。それは完結しえない物語かもしれないが、そもそも物語るとは、そのような閉じようのないものとしてしか生きられない行為ではなかったか。
 ところで、僕は普段道を歩くときについ端の方を歩いてしまう。広い部屋の真ん中で寝ることができない。ドラマで気になる女の子はいつも脇役だったりする。そんな性格だからかは分からないけど、研究の対象として選ぶものもつい周縁にあるものになってしまう。共生学というディシプリンが中心に構築されるとしたら、じゃあその周縁はどこになるのかな、ということが気になってしまうのだ。まだできてもいない中心を想定しつつ、周縁を気にするのもずいぶんと気が早い話だけれど、そういうことで2006年度の年報では、細やかな語りの積み重ねの一つとして、共生を謳えども学たり得ないだろうものとしてニセ科学スピリチュアリズムを取り上げてみた。
 実はもう一つ、現代社会において共生の語られる周縁として注目している領域がある。それはテレビ、マンガ、ゲーム、といった大衆メディアで語られる物語である。インターネットの一部もここに属するだろう。例えば90年代にセカイ系と総称されるサブカルチャーの流行現象において、現実のオウム事件阪神大震災と連動して、世界に絶望し世界との断絶を希望する私語りが大量に消費され話題になったが、2000年以降、ゼロ年代においては、再び如何にして世界と向き合い他者との関係を構築していくかということが同じサブカルチャーの中で今日的な問題として再浮上している。現代の共生思想が語られる場として、見過ごしてはならないだろう。

*1:http://kyosei.toyo.ac.jp/data/kyosei_nl_03.pdf