Under the hazymoon

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言語化されない感性は本当に共有されているのか?

夏目さんが「フランスで武術を教える日本人」*1で、何でも細かく指導を求めるフランス人に「答え方」から「教える」という何とも禅的なエピソードを紹介されていて、言語化の不可能性と必要性については、まったく同意するところで、そうだよなーとふと連想したのは、虹の色の話なのでした。文化によって三色だったり五色だったり七色だったりするあれ。
虹を見て、そのとき見えているものは客観的に同じもものだし、きれいだねーという感性は共有できる(ということ)にしても、でも同じものを見ているのかといえば、そうそう同じだよーとか実は違うじゃんとかいうのは、言語化してはじめて分かることで、言語によって分節されてようが、感性によって分節されてようが、どう分節されているのかは言明してはじめて互いに了解できる、ものだと思うのです。
虹の美しさそのものを言語化できないとしても、その前にやれるクリティカルや些末なことはけっこうあるわけで、そしてそうした本質から外れてるように見える周縁部が大切なのよ〜というのもこれまた禅的な考え方ではなかろうか、とか考えてしまうのでした。

*1:http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2007/12/post-97d1.html