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現象としての易筋

ブートキャンプ5日目は初心者向け易筋経講習会でした。武術の攻撃技術とは関係なし、完全に養生シフトの会でした。そう、僕はこれを待ってたぜー。
『易筋経』については、文献学的な問題はもちろんあるわけですが、それについては先行研究含めて、調査中だったりしますので、ここはひとまず李先生の解説をどうぞ*1。ま、文献の信頼性とかは、実修するだけならどうだっていい話ではあります。個人的には重要ですけど(^^ゞ
 

『易筋経』は生命のルール

『易筋経』は武術や養生の技術をただ解説するものではなく、生命の本質、そのあり方を説いたものだと李先生は言います。世の中には様々な武術やスポーツがあり、それぞれに一流とされる人たちがいますが、仮にすばらしい技術を持ち他を圧倒する強さを持っているとしても、ある時点で体をこわしてしまう人が少なくない。それはその技術が生命のルールにのっとっていない不自然なものだからで、それがどんなに有効な技術であったとしても、人生を全うするという点では問題がある。しかし、と李先生は続けます。『易筋経』の練功法はその生命のルール、自然の法則にのっとったものなので、やればやるほど自分を強く健康にできる。そして、馬貴派八卦掌も同様の効果がある、ということは『易筋経』と同じ原理にもとづいているからに他ならない、のだそうです。これは他の武術や練功法でも同様です。あらゆる武術が『易筋経』に由来するという言葉はこの意味において正しく、歴史的に『易筋経』とまったく無関係の武術や養生法があったとしても、その技術が極まれば、背景にある理論や思想は必ず『易筋経』と同じものになる、なぜなら生命のルールは人類共通だからとの由。

ではそのルールとは何かというと、目に見えるもの(筋・骨・肉)と目に見えないもの(精・気・神)が合わさって人間は構成されているというものです。だから練功においてもこのルールに従うことが理想の方法というわけで、それはつまりこの双方を合わせて修行するというものです。この目に見えるもの(有形)と目に見えないもの(無形)とは陰陽の関係、つまり相補的な関係にあります。とすれば、こと練功においては、目に見えるものの方が重要ということになります。なぜなら、目に見えない方にもし問題があったら、それ自体見えないものでも、必ず目に見える方に影響が出てくるわけです。目に見えないものがカバーする領域は広くてつかみどころがないため、目に見えるところで勝負する、というのが大事なわけです。
その目に見えるものの中でもっとも重要なのが「筋」ということになります。筋の機能には大きく次の四つがあります。

  1. 連絡周身:全身をつなげる
  2. 通行気血:気血を通す(筋が強ければよりよくめぐる)
  3. 助冀精神:精神のはたらきを助ける
  4. 提携運動:運動の支えとなる

つまり健康全般を左右するものが筋ということになるのです。易筋とはまさにこの筋を易(変化)させる重要性を説く経典であるわけです。

その筋をどう変化させるか。筋をそのまま鍛えることが変化させることにはつながりません。有形と無形が相補的な関係にあるとして、その両者をつないでいるのは何でしょうか。「気」「血」である、というのが『易筋経』の答えなのだそうです。つまり、実態としては筋の強い弱いが人間の健康を左右するのですが、その筋の強弱は気血の多寡によって決まる、気血こそが健康をつかさどっていることになります。体の中を流れる気血を養うことで、その外の肉体が鍛えられる、内から外まですべてが鍛錬されるということになります。

そういうわけで、気血を養って筋を変化させるということが易筋経の手法なのですが、実際の鍛錬においては次のプロセスを踏む必要があります。

  1. 気血を一つにあつめる
  2. あつめた気血で膜を膨張させる
  3. 膜の中にある筋をのばす

筋骨を膜が包み、筋骨と膜の間に気血が流れているのが人体の構造だと『易筋経』は説きます。であれば、ただ筋を鍛える、ただ気をねる、というだけでは筋と気が結びつくことはありません。両者を一つにする機能をもつ膜もまた鍛えることが非常に重要なわけです。気血を膜の中に押し込むことで、膜が気血を筋に送ってくれ、それでようやく筋は気血を栄養として育つ、という次第です。

そうなるとそもそも気血を養うということを行わなくてはならないわけですが、その方法はただ一つ、「中正」を保つこと、なのだそうです。中正を保つと気血が自然と一つに集まり、そうすると膜の中に気血が……と続くとの由。
もっともどこの筋でもおかまいなしに気血を送り込むのではないです。上中下三盤でそれぞれもっとも鍛えるべき筋=一般的にもっとも弱い筋があって、そこを鍛えれば他は付随して丈夫になるんだそうです。それは上は後ろの首筋つけねのあたり、中は腰、下は足首から先、だそうです。で、それぞれの箇所を鍛える方法が各8つあって、全部で24の練功法が編み出されたそうです。
 
僕も原典は読んでますので、李先生の解釈については確認してあって、これはまったくその通りだと言えます。ただ「精気神」と出てくる段階で、これは明らかに道教由来の経典だな、というのが分かります。達磨の名前を冠した練功法を記した偽経って『道蔵』にも収録されてるんですよね。その系統かなあと。そのあたり内容を比較していくとおもしろくなるかなーと思うんですが、ちょっと時間がないです。来年度の研究課題にでもしようかしらん。特に「膜」ってあまり聞かないし。
 

今回のびっくりどっきり練功法

いや、びっくりもどっきりもしないし、むしろひいこらましたが。

  1. 上盤
    1. 両手を合わせて開く(手を握ったのが基本で、牛舌掌のもあり):抱肘分肘式
    2. 両手を下に降ろしてから上に大回転:鋪天蓋地かな?
    3. 両手を上に上げてから下に大回転
    4. 手のひらを上にして前で合わせてから甲を返してびびっと開く:88式にあり
    5. 手のひらを下にして前で合わせてから甲を返してびびっと開く:88式にあり
  2. 中盤
    1. 熊形翻身掌みたいなの
    2. 熊形翻身掌みたいなのを小さく:
    3. 仮面ライダー変身のポーズ:倒署y九牛尾勢
  3. 88式の大起式

といったものをやりました。各自練習する場合は、1セット8回として、1日当たりせいぜい2セットが限界でしょうとの由。
最後の88式を除いた各易筋の動作は、立って行っても、馬歩で行ってもかまわないそうです。ポイントはあくまで各部の筋を伸ばすことに意義があるので、原理的にはどっちの姿勢でも問題ないわけです。と言いつつ、実際はほとんど馬歩でしかやってませんが(^_^;)
で、これらの動作は、全身を使ってできるかぎり強く、できるかぎり大きく行うこと、が重要なのだそうです。「筋出力盡」(筋を伸ばし力を尽くす)で行いなさいと李先生。例えば「鋪天蓋地で手を上げるときは、(胸は落としてはいるものの)全身を使って伸ばせるだけ手を伸ばすと。つまり動作としては手を伸ばしているけど、その目的は背中の筋を伸ばすことにあるわけです。また「倒拽九牛尾」のように牛を九頭引っ張るのに手だけではできない、腰を基盤にして全身で引っ張らなくてはやはり無理なので、その際には頭のてっぺんから足の付け根までの筋をすべて一つにして伸ばすようにやらんといかんそうです。
ただ、ここでいちばん大切なポイントは、動作そのものにはなくって起式と収式にあったりします。元気玉出すみたいに身体を動かして丹田に気を集めてから、上盤なら上背、中盤なら腰に気を移して膜をふくらませておいて、それから筋を伸ばす運動をするんだそうです。そうでなくては筋が練られないんだとか。また動作を終わるときもゆっくり元に戻っていくんですが、戻ってもまだ丹田に気が残っているようにするんだそうです。ここが易筋の基礎理論の実践というわけなんですね。これまでここ飛ばして動作だけ追ってました。きちんと習ってやらないと意味がない、と李先生が言われていた理由はここにあったわけです。
ここまで念入りにやるかとった具合に、気を集めつつ、しっかり馬歩、そしてもちろん中正!含胸亀背下端腰で、ひとたび動くや所作は全て対称にってぇ寸法で、えらくしんどいったらないです。しかも足にキます。全然気が集まってる感じがしませーん。上背や腰より足の鍛錬になっとりゃせんだろか。何か間違ってるのかなあ。

「筋」は「きん」か「すじ」か

会を終わった後、ある人から「筋」を「きん」と読むと筋肉と思うから「すじ」と読んだ方がよくないか、他の団体ではそうしているとかなんとかコメントがありました。「易筋経」は「えききんきょう」だし、「筋骨肉」を「すじほねにく」と読んだ日にはラーメンの仕込みみたいだから、漢字一文字で音読みはすわりは確かに悪いけど、一貫して同じ読みの方がいいかなと思って「きん」で通したんですが、そう思う人もいるわけですね。まあ確かに「筋」は字義にもとづいて解剖学的に言えば腱や靭帯を指す漢字で、日常生活で腱や靭帯を言う場合は「すじ」と言い慣わすので、それもそうでしょう。実際、李先生は「tendon」という英訳を当てています。
しかし、問題は簡単ではなくて、じゃあ「すじ」と読むのはいいけれど、易筋経で言うところの「筋」は本当に「すじ」なの?というと、これは問題でしょう。日本語の「すじ」には筋肉が含まれる場合もあるでしょう。
それに「筋骨肉」を実体として同定できる、と思うのは如何にも早計です。それに対応する「精気神」も、それじゃあ実体として同定できるのか?ということになるでしょう。目に見えるからといって、同じものが見えているとは限らないわけで、ここは、「精気神」を実在だが実体ではなく現象なのだ、と考えるのと同様に、いや実体としてこれらを想定している人たちもいるでしょうけど、まあ、その、ね、アレだし、ここでは「筋骨肉」もまた実体ではなく現象なのだと考えた方がよくないですかねえ。またそこまでいっちゃわないでも、中国的な「筋」の概念には実体としての「筋肉」は含まれないが、機能としての「筋肉」は含まれている、と考えることもできます。つまり解剖学的な構成要件と中医的な構成要件がオーバーラップしつつ齟齬する場合があると。
以上のような立場で考えていかないと、中医ではあまり注目されてない様子の「膜」なんかどうしていいか分からないですよ。実体として腱膜を想定でもするんですかね。でもそれに何の意味が? 解剖学的なまなざしで腑分けしていってもいいですけど、それはベクトルが別の方向、たとえば存思のようなイメージを伴う瞑想の技術の方に流れていくんじゃないかと思います。ま、それはそれでおもしろいけど。
 

力の入れ方に関する外観描写と内部感覚

結局、この易筋経の要点も、李先生は非常にミもフタもないかたちで提示されているのだと思います。つまりこういうことです。上盤の動作においては、肘でも腕でもなく上背に力を入れる。その際に、縮んで硬くなるようにでなく、伸びて張るようにする。そうしたときに感じる体内の感覚を気血が集まっていると表現するし、張っていることを膜のうちに集まった気血で筋が養われている状態だと考える、というわけ。そこに確かに現象として実在していますが、しかし粒々の気の粒子が膜の中にたまっていったりという近代的なまなざしとは本来無縁なのではないかと考えます。本来、としたのは近代以降は科学の知識によって気の概念が変更されてしまって現在にいたり、僕たちの気に対する概念の根幹にその汚染(というと、経学者っぽくてヤだけど、とりあえずそれ)が色濃く残っているからです。こと実践においては、解釈を難しくしないで、見たままを行った方がよいように思うんですけど。上述したように具体的な要点をいっぱい教えてもらったんですから、あとは自分の目で見たお手本をもとに練習すればいいんじゃないかと。

*1:http://www.maguibagua.com/Rx%20background%20of%20tcc.html