Under the hazymoon

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装置としての天子

今日は春秋繁露研究会で、準備不足ながら担当として如天之為第八十を読みました。この篇の前後十七巻あたりの陰陽理論による天人相関説の解説は、自然観察の細分化によって儒学理論を精緻化してて非常におもしろいです。これをまったくもう何でもかんでも仁義なんだから〜プンプンと見なすか、仁義が自然なしで生きていけない身体にされていくぅヨヨヨと見るかは、その人の問題意識ということになろうかと。
 

夫れ喜怒哀樂の止動たるや、此れ天の人の性命と爲す所の者、其の時に臨みて上るに至り、其の應を發せんと欲するも亦た天の應なり。煖清寒暑の其の時に至れば亦た發すると異なる無きなり。紱を留めて春夏を待ち、刑を留めて秋冬を待つや、此れ四時の名に順ふこと有るも、實に天地の經に於いて逆らふなり。

とあって、一つにはこれを、支配者は制度を無視して望むときに望むことをできるのだ、という阿諛追従的理論化とみたり、また当世の事情に合わなくなった伝統的な政治様式を現代的に再解釈したのだとみることもできるでしょう。しかし、現実問題として滑稽として困難な生を生きていかねばならぬ立場からの言葉とすれば、これをまた、儒教的な礼から逸脱しまくりの自然な感情の発露すら自分の意志によるものではないという機関説めいたものに支配者を陥れることで権力を個人のものとさせず分散させていく契機をつくる理論とみることもできるのではないかと。