Under the hazymoon

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ゼロ年代な「ホモ・エクササイズ―生き抜くことへの賛歌」

隣の職場で、「人間の定義を一新し、人間の可能性を拡張することを目指して、リハビリテーションおよび環境デザインの課題とその展開を促進するために制作」されたアート作品*1が公開されました。河本せんせい総決算のようなコンテンツの組み合わせにも関わらず、作品として見たときに「ゼロ年代」それも前期(ということになるのかな)の決断主義めいた内容だったので実に興味深いものがありました。
 

全体を通じて、自意識過剰で、シバキ主義的に選択を迫りつつ、それを実現するために環境の管理を志向するといった構成はいかにも決断主義で、向こう側を示して飛べ飛べと言いつのるあたり、正直なところ同じ言葉を扱う者として共感し魅力も感じながらもその一方で、しかし「ここってもう何年も前によしながふみが通り過ぎているところジャン」*2とも言えそうだし、どうして荒川のコンビニの店員のじいちゃんでなく、異国の少年の姿が示されるのか、生まれて初めて見る路地裏なんて、東京に来てからふらふら歩いているだけでいくらでも見つけていけるのに、と思いました。異界はすぐそばに転がっているし、青い鳥はいつも隣に止まっている。
それに、現代舞踊に重度障害者を重ね合わせ、不思議な自然とか世界のあちこちとかきれいな映像を前後に挟み込むといった構成は、そこに哲学的な裏付けがあるにせよ、そうした演出自体、そこはかとなく正義商品*3の匂いがするんですけど、うがちすぎでしょうか。
それがリハビリに携わっている人たちを動員するには確かに効果的かもしれませんが、一般的な環境デザインの可能性として、幸いにもリハビリと縁なくすんでいる僕も含めた多くの人たちに示されたとして見た場合、自らの可能性を拡張するためには荒川アートの世界で暮らさんといかんらしく、いやまあそういうように理解できる演出になってるというだけで明言されとりませんが、個人的にはちょっと遠慮したいところです。
とはいうものの、自分の業界を顧みるに、時代と寝てる古典学。。。かあ。うーん、『論語』ブームとかを見るにどうにもいわゆる過去の過ちと同じ道に回収していく圧力が高くて、伝統や教養の難しさがもろに出てたりして、まあどっちもどっちです。それでも、僕はやっぱりこっち、と思ってしまうのはやはり物好きだからとしか言えないかも。結局趣味の問題ってどうなのよ、という気もしますが、しかしイメージビデオ制作なんて趣味じゃなければ何なのか。いやそれでええと思ってるんです。芸能としての人文学ですから。僕が武術続けてるのもそういう意味での実践を意図的に再現してるつもりですし。

それにしても宇多田ヒカルの曲とか新しい曲も使ってたように思うけどJASRAC対策とか大丈夫なのかしら。YouTubeで公開しているとなるとどんくらいお金取られるんじゃろ、と卑俗なところが気になるわたくし。

追記(3/7):

そうそう、最初のあたりで、歴代の哲学者?の写真が次々出てきてたら、いちばん最後に河本せんせいの写真がぽんとおかれて、本人がやったのならずいぶん自意識過剰だし(すぐれた哲学者は芸術家なのだとすればアリといえばアリか)、学生が差配したのならさすが河本教と鼻白んでいたら、そこにかぶさるように「……彼らはどう生き、どう死んだのか」といったようなナレーションが入って、コーヒー吹きました。河本せんせい殺されちゃったよ。なかなかパンチの効いたギャグで、これは喧嘩上等な西哲じゃなきゃできない芸当だなあと感心したのでした。

*1:http://tieph.toyo.ac.jp/act-pst.html

*2:http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20080228/1204123003

*3:http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080226/1204009224