Under the hazymoon

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ニコ動、テレビ、マンガ、絵巻物

ニコニコ動画の構造的起源にふりがな文化をおいてみる、というもろさんの話*1を受けて、やまももさんが絵巻物に言及されてた*2のを読んで、夏目さんの絵巻物とマンガとの比較のおもしろい話*3を連想したのでした。

ニコ動の場合は、直接的には『電波少年』で確立されたと言われるテレビ番組の字幕による補足→つっこみの進化を、視聴者参加型で行っているサービスといえるでしょう。字幕のせいでテレビの質が落ちたとくさす人がけっこういた(と思うし、僕もそう思ってました。科白の説明に頼って絵で説明できないドラマや映画はその悪影響じゃないか、とか)のに、制作者側だけが行えてたつっこみを視聴者に開放してみたら、実はそれは新たな文化的価値の創出であったと分かったと。
もっともそうした映像に対する文字による補足は、マンガによってその多様性が開かれたものでしょう。耳に聞こえる科白や擬音を除いて、客観情報の補足や全体の語りはもちろん、少女マンガなんかだと登場人物の心中の独白は重層的だし、語りともつかぬ詩とか、さらに作者のつっこみまであって、物語の進行とは別の語りがなされたりと、「ふりがな」表現の可能なレイヤーはほぼここで出てしまったように思えます。
テレビではマンガで培われた(高いリテラシーを必要とする)ふりがなレイヤーの継起にかかる時間配分を固定することで大衆的な作法として確立し、ニコ動ではマンガでは作者の声しか反映されなかったふりがなレイヤーを読者に開き、読者間で共有できるようにしたわけですが、これは動画だからできることで、マンガのように映像の時間が固定されていない(というか読者の中に内面化されるので共有化できない)メディアでは、ふりがなレイヤーの共有化は難しいように思えます。
ここで注意しておくべきことは、ふりがなが、意味内容を超えてその表示自体が弾幕など視覚表現として成立したりする場合もあることで、そこまでくると、むしろDJやラップのような音楽の切り貼り文化など、このへん詳しくないんで何とも言えんですが、の文字化としてその背景に考えた方がいいかもしれません。
そうなると、ニコ動の次に来るものは、映像の継起にかかる共有化、VJがやっているようなことを誰でも行えるようになって、ベースの映像がどんどんその場で増殖していくようなサービスということになるんでしょうか。従来それはキャラのデータベース化で、初音ミクからソワカちゃんみたいに一定の作者による二次創作でしかなしえなかったのが、例えば24的カット割りや回想シーンぽい映像効果とか限られた特殊効果をワンクリックで映像の好きなところに加えることができるようになったりとかそういうことができるようになるとか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080411/1207923241

*2:http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/04/13/3088960

*3:http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2008/04/post-9d0e.html