Under the hazymoon

http://researchmap.jp/nomurahideto/

型としての秘伝

北京で秘伝を習った話*1をついネタにしてしまった*2わけですが、というのも、夏目さんとも時々話してるのですが、秘伝が秘伝たる理由はその内容にあるのではなく教授関係にある者たちがそれを秘匿するという行為から導かれる構築的なものなのに、つい本質的なものだと思ってしまう、というか周りが本質的であると認定することで構築されるという状況があって、それにあんまりつきあいたくないな〜という個人的心情があるわけです。
 

歴史的にみても、どうも秘伝というのはそういうものらしい、というのがなかなかめんどいわけです。秘伝を維持することについて、昔からそうしてた、ぐらいしか現代社会においては積極的な理由がないんじゃなかろうかと思うものですから。ようするに、伝統芸能の継承として秘伝という「型」を保存する、みたいなもんで。
前にも書きましたが、実「戦」的な理由から秘伝の維持を訴えるという立場は、より開かれた誰でも学べる場を作ることを目的とするならば、現代においては公には認めがたいのでしょう。畢竟、選ばれた者以外は学べないという特権的な集団を構成するしかないわけです。

で、現行の馬貴派の場合、李先生からして秘伝を秘するが花とはしていません。段階的に学んで必要な練功が蓄積されれば、おそらく誰にでもすべて教えてくれるであろうことは、易筋経のかたちをとって馬貴派で行われてきた練功法を教えてくれていることから明らかです。易筋経を実行しつつ八卦掌の技を行えば、同じ技でも発揮される力が異なることを李先生は言われています。それを知っていると知っていないとでは同じことを行っても意味がまったく変わってくるのが、中国武術的秘伝のようですから*3、まさに易筋経は秘伝的文脈を維持しながら、にも関わらず一般に開かれた健康法として提示されているという、画期的な実践のスタンスではないでしょうか。李先生の高い思想性の一端がここにあるように僕には思えるのです。
 そんなわけですから、今年の冬の講習会の時点ですでに秘伝は公開されていたということになります。誰でも、初心者から参加できる講習会でそんなことをしちゃってた(と後々になって気づいた)わけです。今度の夏もそうなるでしょう。日本で李先生に来ていただくお手伝いをしている一人である僕としては、やはりそういう開かれたかたちで武術について触れていくというスタイルを僕なりに考えていくのが、実践者兼研究者の立場かなと改めて思うわけです。真面目に書くとこうなります。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20080329/p3

*2:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20080329/p1

*3:拳児』にそう書いてあったような。実際、周りでもそういう話を聞きますし。明文化されたソースがあればええんですが。