Under the hazymoon

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たいていのマンガは『24』ではない、と思うのだけど。

きちんとしたアーカイブで検証したわけではないので、結局個人的な体験からリテラシーの議論をしてしまうということを最初にお詫びしておいて、いずみのさんの『漫画をめくる冒険』を読んでの感想を書いていきます。んで、さらに、同書の主題である「プライヴェート視点の描き分け」という論点には、おおう!そうだったのかーと非常におもしろく感じたこともお断りしておきます。

さて、主に論じられているスクランについてはまた別に書くとして、ここでは最終章で挙げられていた『昴』*1を題材にして示されたマンガの読み方について論じてみたいと思います。10巻での主人公スバルのモノローグを引き受けるかたちで親友の真奈が切符売りの啖呵を切るシーンをとりあげて、モノローグでしか言ってないことや真奈が代弁してスバルの言葉として描かれなかった言葉までが後のシーンではすべてスバルの科白として真奈が聞いていたという描写があることから、『漫画をめくる冒険』では、

バレエを通じて、自分が視てきた世界を人々にも届けようという、超能力じみた奇跡を起こそうとしていたすばるですが、その奇跡を実演する以前から、真奈という理解者にだけは、その想いが届き、テレパシーも同然のコミュニケーションが成立していたことがわかります。

との解釈がなされていますが、しかし、登場人物がテレパシー能力のようなものを発揮して共感している、というような読み方をわざわざしなくては、『昴』の実質的なクライマックスであるこの場面を理解できないものなのでしょうか*2。単純に、スバルの科白は演出上、「省略」されただけ、であると考えてはいけないのでしょうか。
たとえば、続編の『MOON』の第一巻*3所収第9話198頁でのスバルとニコの語らいですが、 2〜4コマにかけて発話された科白を追うと、ニコが「俺の目が見えないことを知って言ったよな。」「ぜんっぜん意味わかんねーんだけど!?」と問いかけたことに対し、スバルは「だってあたしにはそー見えたんだもん。」と答えています。発話された言葉では当然会話が成立しておらず、ニコの発話の間に回想として挿入された「だからあんな自由なんだね。」とのスバル自身のニコに対する発言をきちんとスバルが踏まえているからこそ会話はつながっています。さてこれをスバルがテレパシー能力ないしはすぐれた洞察力を発揮してニコの回想を読み取ったと読み解いていいものでしょうか。
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もしスバルとニコが現実に存在していて、そうした会話を交わしていたとしたら、おそらく「俺の目が見えないことを知って言ったよな。「だからあんな自由なんだね。」なんてさ。ぜんっぜん意味わかんねーんだけど!?」という風にニコは話し、頭の中でスバルとの会話をしたでしょう。それをマンガにするにあたって、演出上、スバルの回想シーンを挿入することで、ニコの科白は省略したんだ、というように読めば、登場人物を超能力者にしなくても話は通じます。テレビドラマなどで、手紙を読んでいるうちに読み上げている人の声から書いた人の声に変化し、回想シーンがはじまったりということはよくあるように思います。現実にそういうことがあった場合、そこでおきている状況はたんに手紙が読み上げられているだけでしょう。しかしそのシーンは演出上カットする、それだけのことではないかと。
ちなみに、同巻第4話100頁でも、こうした会話上の省略は行われていますが、ここでは5コマ目に会話内容のみを省略した、カティアにぶーたれているカットが挿入されています。この場合、そのコマ自体なくても話は通じますが、そのコマがあることで、スバルの苛立ちがより強調されているように思います。
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『昴』での真奈とのシーンにおいてもそうした演出上の省略が行われたとみるべきでしょう。描かれたことはすべてその物語世界においては現実に起きたこととして織り込むことがルールとすれば、ですけども、後付けであれスバルがそのように言ったということは、それが現実に起きたことなのだと考えるべきではないでしょうか*4。とすれば、もし現実にあのシーンのようなことがおきた場合、おそらくそのときスバル自身は最後の一言まで確かに言ったのです。しかしそれは、それこそ巫女のごとくうわごとのようにつぶやいていただけで、道行く人に聞こえるものではなく、すぐそばにいた真奈だけが聞きえた。それを彼女が拾い上げ、大声で周りに向かって叫んだ、そのように読んでも何ら問題ないように思います。ではなぜ主人公であるスバルの科白をカットして真奈の科白を採用したかといえば、それは前後の文脈からも明らかで、真奈がスバルという才能にいやおうなくひきつけれられてしまうその状況を描きたかったからではないでしょうか。そしてスバルが完全に話の中心となるダンスのシーンにおいては、もはやスバルの言葉しか想起されないというわけです。
まあともかく、現実なら起こりうる出来事をすべて表現せずに省略するというのは、ごくごく普通の演出上の技術であって、それはマンガに限らず、小説・映画・マンガ・アニメ・ゲームそれこそどんなものにでも見出せます。そりゃ現実世界の情報量をそのまま再現することはまず無理ですから当たり前のことです。もっとも、筒井康隆の小説にあったような現実の時間に沿って文章を起こしたりする小説や、リアルタイムに事件が起きている『24』、そしてマンガにおいてコマの枠からキャラが飛び出したりする場合*5のように、そうした当たり前の前提を逆手に取った演出というのもありえます。ですが、『昴』『MOON』はそうした作品でしょうか。普通に省略が行われている作品であるとして読んでも、十分にその魅力は伝わると思うのですけども。

*1:[asin:4091866018:detail]

*2:いや実際にこの後予知能力を発揮するFBI捜査官とか出てきますけれども。

*3:[asin:4091817467:detail]

*4:作者の筆が滑ったという解釈もできるでしょうが、そうだとしてもそれはそう描いたと思っていたわけで、立論上問題にはならないでしょう

*5:通常は文章/カット/コマによって(物語の中の)現実の一部を切り取っている、ということを前提にして読んでいるからこそ、その「外」で登場人物が何をしているのか想像して二次創作が行われるわけでしょう。