Under the hazymoon

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チビ×ノッポ恋愛物の系譜

『マンガをめくる冒険』を読んでいて、どう見えるかでタッチが変わるという表現はそれ自体新しいものではなくって、先行しているものとして登場人物の内面なり役割なりがそのまま外見にデフォルメされるという表現があって、その延長線上に、マンガの多様化にともなってタッチの変化として特化/繊細化したのではないか、と思ったわけです。

スクランがギャグマンガ枠であることに端的に示されているように、劇画タッチを漫画タッチに持ち込むというのはギャグマンガが始めたことじゃなかったでしたっけ。それが普遍化した上で、さらにそれをキャラ目線を設定することで、リアルな表現技法として読めるのだと逆転させてしまったところが、同書の議論のおもしろさであるのですが、ここではそこには踏み込みません。
むしろ僕がいろいろ連想/妄想したのは、その前段階のデフォルメ表現の方についてだったりします。役割の可視化とも呼べるその表現、わかりやすい例で言えば、大豪院邪鬼とかラオウとか何でそんなにでかいのあんた、というやつで、実際はそうした表現は白髪三千丈的な文学的表現として普遍的に見られるものだったりして、その典型的なものとして古くは昔話、新しくは大衆文学(三国演義などの一騎当千ぶり)などが挙げられるわけですが、ここではジャンプつながりで、むしろ『硬派銀次郎』が気になるのです。
少年が主人公として活躍する、というモチーフ自体は、それこそ『赤胴鈴之助』あたりからが少年が読者対象であるからこその「一般には力のない少年が大人に伍して活躍する」という普遍的なものですが、学園物という舞台において周りがすべて同じ少年になったとき、主人公はよりチビで三枚目にデフォルメされて、一段階低い地位からの逆転劇という筋立てに変わっていったのでしょう。ちばてつや作品や類似の作品は多くそんな風に書かれていたわけですが、その中で本宮ひろ志の『硬派銀次郎』は特別だったように思います。というのも活劇よりも恋愛にその魅力が大きく発揮され、比重も大きかったように思うからです。つまり、チビ×ノッポ恋愛物というモチーフです。
これの先行するものとしては松本零士の一連の作品が挙げられるでしょう。『銀河鉄道999』における哲郎とメーテルの関係は、松本作品の中で繰り返し語り直されるモチーフでした。昆虫の世界を擬人化して描いた昔の作品とか。『硬派銀次郎』で描かれたのはむしろこっちのモチーフだったのではないかと思います。もっとも恋愛物といっても、すでに答えは出ていて、美人のヒロインはチビで冴えない主人公のことが大好きなんですね。主人公は周囲に理解されていないものの、その内面は他の誰よりも、優しかったり、男らしかったり、してて、それをヒロインだけが理解している。つまり、外見的につりあわない二人が周囲の障害を乗り越えて結ばれる話なわけです。『かぼちゃワイン』もそういう話でした。ちなみに『硬派銀次郎』の主人公は本宮ひろし的イケメンに描かれていて、哲郎や『かぼちゃワイン』の主人公(誰だっけ。ヒロインはエルはラブのエル〜だったよな)よりかっこよく見えるんですが、物語の中ではイケメンの地位は与えられていませんでした。『百回目のプロポーズ』はこの系譜の実写版といえますね。
これらの作品において、背の低さはルックスの悪さを象徴する記号、つまりラオウの逆として、機能していたんだと思います。中身はいいのに、外見は劣っている男がいて、いい女は外見に惑わされず中身を見抜いてくれるという、そういう男にとってのファンタジーです。
これがファンタジー指数をあげていくとどうなるか、中身も悪いけど、何故か女の子が好きになってくれる『うる星やつら』の世界に以降していきます。優柔不断男が一途なヒロインをわきにおいて女の子を追っかける、というやつですね。この手の話では、『きまぐれオレンジロード』もそうですが、主人公のルックスは十人並に格上げされています。チビ×ノッポという表現は消えてしまったわけです。
チビ×ノッポという表現が消えていったのは、記号として通用しなくなった≒リアリティがなくなって、ギャグになってしまうからなのかもしれません。というのもつい最近、『いちご100%』の作者の新作でエピソードの一つとして取り上げられていたのは、『かぼちゃワイン』的コメディリリーフでした。読者層の変化、青少年の発育の発達とか、外的要因があるのかも。
では、チビ×ノッポ恋愛物がモチーフとして機能しなくなったのかといえば、少女マンガの方にこのモチーフが受け継がれていったor最初からあって少年マンガのそれよりも寿命が長かったのです。『うる星やつら』以降でも、『っポイ』なんかもそうなんですが、ボクたまや『久美子と真吾』シリーズで、チビ×ノッポの恋愛物が語られています。ただそこでは、チビが記号的表現ではなく実際にチビなのである、つまり年の差カップルもの、もっとはっきり言えばショタものとして、このモチーフをマンガ的表現ではなく写実的表現として物語を再構築したと言えるでしょう。ちなみにこの両作品とも、最終的には結婚までの成長をきちんを描き、つまり主人公はチビであることを止めてヒロインの背を越えていきました。逆光源氏物だったわけです。ちなみにこうした欲望に対応する、つまり光源氏ものの男性向け作品としては、美少女ゲームの嚆矢である『プリンセスメーカー』を対置することができるでしょうか。
絵としての表現が何をリアルにしているか、という問いが持つゆらぎをテーマをしぼることで考察/妄想してみました。もう少し時間の前後関係や隣接する作品を揃えたら、まともな論になるかもしれませんが、とりあえずここまで。