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易筋経訳注稿案その2

  • 李保華評、野村英登訳
  • 『易筋経』には文献学的な問題があり、訳注を公刊するにあたってはそこを論じる必要があるが以下の理由によりひとまずおく。
  • 易筋経の邦訳はすでに大正時代になされたものが復刊されていて、現在でも入手可能であるが、馬貴派伝播中心で実施している易筋経講習会で解説に使われる版については未訳であるようなので、ここに訳注稿案を掲載する次第である。
  • 本稿では「総論」「膜論」の日本語訳を掲載する。
  • なお、以前触れたことがあるが、「筋」について「すじ」と「きん」どちらで読むのが妥当かという議論がある。「すじ」なら伝統的な解釈で「腱」の意味となり、「きん」なら近代的な解釈で「筋肉」の意味となるとの由であるが、実はどちらで読み込んでもそこにすでに近代的な視線が入り込んでしまっていることにこそ注意すべきであろう。そもそも「筋」という漢字が提示されその意味において考えればすむことであって、日本語でどう読むかは本質的な問題ではない。読み慣れとして漢字一字では訓読みがすわりよいし、熟語になれば音読みがすわりよい。「易筋」や「筋骨肉」を「えきすじ」「すじほねにく」とは読みづらい。逆に「筋」と一字あれば「すじ」と読みたくなるものだが、結局どう読んだところで「筋」は「筋」である。通訳などを含む口頭での説明において、適宜音訓を使い分けるが、そこに特別な含意はないことをあらかじめお断りする。

総論

日本語訳

(達磨の教えは)次の通り翻訳されて伝わっている。佛祖の教えについてその大意を述べると、悟りを開いて佛になるには、最初の基礎に二つある。一つは清虚といい、一つは脱換という。清虚であることができれば聖なる領域との隔てがなくなる。脱換することができれば現世で足をすくわれることがなくなる。そのように障礙がなくなって、はじめて悟りの境界に出入りすることができるのだ。清虚とは洗髓のことである。脱換とは易筋のことである。
その洗髓の教えとは次のようなものである。人の一生とは情欲に感応して、ひとたび形あるこの身体に生まれ落ちてしまうと、内蔵や手足の肉体は、そのすべてが穢れに染まってしまう。必ず洗いつくして浄化して、ほんの少しの傷もないようにして、それでようやく凡夫から聖人への道へと進むことができる。そうしなければ、道を進んだところで基礎がない(から仏になれない)。つまり洗髓とは、自身の内側を清くしようとする。易筋は、自身の外側を堅くしようとする。もし内が清浄で、外が堅固であれば、聖人の領域に手のひらを返す短い時間のうち到達できる。どうして仏になれないと悩むことがあろうか。
また易筋の教えとは次のようなものである。人の身体の筋骨は、母より授かったものである。ゆるんだ筋があり、まがった筋があり、くずれた筋があり、弱い筋があり、縮んだ筋があり、大きい筋があり、よくのびる筋があり、強い筋があり、均整のとれた筋があって、それぞれ一つとして同じでないのは、主に胎水の性質によるものである。もし筋が弛むと病気になる。筋がまがっていると痩せてしまう。筋がくずれていると手足がなえる。筋が弱いとすぐにつかれる。筋が縮むと死んでしまう。筋が大きいと強くなる。筋がよくのびると背が高くなる。筋が強いと剛力を出せる。筋の均整がとれていれば健康になる。もし自身の内側が清虚でなく邪魔するものがあり、外側が堅固でなく障害があるようなら、どうして聖なる道へ進めようか。だから聖なる道を進むには、まず易筋つまり筋を改変してその肉体を堅固にし、内を強くして外を助けるのだ。そうしなければ道もはるか遠いものとなる。
その易筋の意味するところは、易という字が非常に重要である。易とはつまり陰陽の道である。易とは変化するという意味の易なのである。易という変化は、陰陽によるものであるが、その陰陽の変化は、実は人の身においておこるものなのだ。壺の中の日月を操り、掌の上の陰陽を捉える。だから病気にかかることは、人の身におこること自体の改変はできない。虚実のもととなるものは改変できる。寒暑のもととなるものは改変できる。剛柔のもととなるものは改変できる。静動のもととなるものは改変できる。高かったり低かったりは運動の上下を改変できる。早かったり遅かったりは速さの緩急を改変できる。順回りや逆回りは道筋の行ったり来たりを改変できる。危機を安全に改変し、乱を治に改変し、禍を福に改変し、死を生に改変する。運命も改変して挽回できる。天地も改変して転覆できる。これが易、変化の力でなくてなんであろう。人の身体の筋骨にいたっても、どうして改変できないことがあろうか。
さて筋とは人の身体をつなぐ糸のようなもの、経絡である。骨節の外側、肌肉の内側、手足肉体のすべてにおいて、筋がないところはないし、経絡でつながっていないところもない。全身を連絡して、血脈が通行し、精神を外から輔佐する存在となっている。人の肩がものを負い、手がものを引き寄せ、足が地を踏め、全身が活発に動くことができるのも、すべて筋がよくはたらくからである。どうして筋がゆるみまがりくずれよわくてよいだろうか。病気で痩せて手足がなえてすぐつかれる者が、どうして聖なる道に進むことを許されようか。佛祖は(そのような状態からの)挽回の機会を斡旋する修行法によって、まがった筋を改変してよくのばし、弱い筋を改変して強くし、ゆるんだ筋を改変して均整をとり、縮んだ筋を改変して長くし、くずれた筋を改変して大きくした。つまり綿や泥のような身体も鉄や石のようになるのである。これが易、変化の力でなくてなんであろう。身体にとってよく、聖なる存在の基礎となるもの、これがその一端である。だから陰陽は人によって掌握されるのだ。陰陽は陰陽のままにはたらくことができず、人間が一人一人自分で自分を完成させるのだ。人は陰陽にからめとられたりすることなく、血気の身体をもってして、改変して金石の身体とする。内にさわりなく、外にさまたけげなく、はじめて悟りの境界に入ることができ、そこから出てくることができる。この修行の成果は、些末な問題ではない。成果は段階を踏むもの、方法は内外の別があるもの、気は運用させるもの、行為にははじまりとおわりがあるものである。何をどこで練るのか、どのくらい時間をかけるのか、どの時間帯に行うかといったとこは、最初から最後までそれぞれきざしとなるものがある*1。入門者は、まず信じることから確かにし、次に誠意をもって、勇気をふるってしっかり行い、決まりにしたがって精進し、常に行ってなまけなければ、必ずや自然と聖なる領域に到達できる。
般刺密諦は言う。この一篇は達摩大師の本意として、易筋の概要を述べたものについて、翻訳して文章化したものである。ほんの少しの私見も加えてないし、文章を書き足したりもしていない。後の篇にある修行法は原典を詳しく翻訳したものである。もし天竺の徳の高い聖僧に出会うことがあれば、内容を吟味してもらうこととしたい。

膜論

日本語訳

そもそも人間の身体というものは、内側には五臟六腑が、外側には四肢百骸があり、また内側には精・気・神が、外側には筋・骨・肉があって、合わせてその身体を構成しているものである。たとえば臟腑を外から筋骨が支配し、筋骨を外から肌肉が支配し、肌肉を内から血脈が支配する。上から下まで全身が活発に動くのは、これも気によって支配されているのである。このため修練の実践においては、どんな場合でも気血を培養することがいちばん大事である。つまり天の物を生み出すというようなことについて、陰陽の働いた結果によって万物が生じたというのでないものはない。まして人が生み出だすことについては言うまでもなく、また修練においてもそれは言うまでもない。さて虗・気・神は形をもたない何かであるが、筋・骨・肉は形をもった身体なのである。
この修行法では、必ず先に形あるものを練り、形なきものの補佐とする。形なきものを養い、形あるものを補完する。これは一にして二、二にして一なるものなのだ。形なきものばかりを養って、形あるものを捨てるようなことは、してはいけない。形あるものばかりを養って、形なきものを捨てるのは、なおのことしてはいけない。だから形あるこの身体には、形なき気が必要である。(体と気が)互いに寄り添い、すれ違うことなければ、金剛不壊の体となる。互いにすれ違って寄り添うことがなければ、形あるものも形のないものに変化して(生命を失って)しまうのである。このため、筋を練るには必ず膜を練らなくてはならない。膜を練るには必ず気を練らなくてはならない。しかしながら筋を練るのは簡単だが、膜を練るのは難しい。膜を練るのは難しいが、気を練るのは更に難しいのである。まずいちばん難しく複雑なところからはじめて、そこに足場をしっかりつくり、その跡で揺れ動いたりしないところを目指して、そこへ至る真実の方法を探すのである。人は自らの元気を培い、中気を守り、正気を保ち、腎気を護り、肝気を養い、肺気を調え、脾気を理め、清らかな気を昇らせ、濁った気を降ろし、邪悪で不正な気を閉め出す。気を傷つけることなく、気に逆らうことなく、憂いや悩みや悲しみや怒りによって気を衰えさせない。気を清らかで安定させ、安定して調和させ、調和してのびやかに広げさせれば、気は筋を通って、膜を貫き、全身の隅々にまで行き渡る。流れないところもなく、届かないところもない。気が届けば膜が起きてくる。気が流れれば膜が張ってくる。膜がよく起きよく張れば、膜と筋はともに堅固になるのである。
もし筋を練って膜を練らなければ、膜*2が生まれてくるところがない。膜を練って筋を練らなければ、膜が拠りどころとするものがない。筋を練り膜を練っても気を練らなければ、筋と膜は泥のようになったまま起き上がらない。気を練っても筋と膜を練らなければ、気はしぼんで広がらず、経絡を流通していかなくなる。気が流通しなければ、筋を堅固にすることができない。これが相互に補完することで、それぞれの方法が錯綜していると言われる理由である。
筋が起きるまで練ってから、必ず功力を加えることで、全身の膜をすべてもりあげて、筋と同じように堅くすることで、はじめて練功は完結する。そうしなければ筋が堅くなっても助けがない。喩えてみれば植物を土がないまま培養するようなもので、それでどうして完璧な練功と言えるだろうか。
般刺密諦は言う。この篇は筋を改変するには膜を練ることを先に行い、膜を練るには気を練ることを主軸とすることを述べている。しかしこの膜は多くの人は知らない。これは脂膜の膜でなく、筋膜の膜である。脂膜とは、腹腔の中にある物である。筋膜とは骨の外にある物である、筋は手足や体を連結し、膜は骨を包んでいる。筋と膜を比べてみると、膜は筋より柔らかい。肉と膜を比べてみると、膜は肉より強い。膜は肉の内、骨の外にあって、骨を包み肉をまとっている物である。膜はそのようなものなので、この練功を行う者は、必ず気を膜の間に通し、骨を護り、筋を強くし、合せて一体とする。それで完全な練功といえるのだ。

*1:原文「藥物器制。火候歳年」は内丹用語。

*2:文脈上、筋ではないかと思われる。