Under the hazymoon

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名作キャラをステレオタイプな脇役として消費する贅沢さ

『赤壁の戦い』巻之上*1を見てきました。劇場の案内に2時間45分とあったので、予告を省いても2時間半、長いな〜と思いつつ5分くらい遅れて入ったらすでに始まってました。えーっと思ったところで聞こえてくるのが日本語でさらにびっくり。吹替版じゃないはずなんだけどと、さらにあわてふためきつつ席についたら、本編前の日本語による三国志の解説でした。

これ、各国の公開版ではどうなってるんでしょう。本編始まったあたりの構成で説明的な演出がされていたので、日本語ナレーションだったことも合わせると日本だけのおまけだと思うんですが。あるいは外国版はみなつけてるのかな。米国版はないのに日本版はあるとかだったら、ちょっと情けないかも。
とはいえ、ホイチョイがスピリッツで三国志オタクを揶揄していたのが標準的な位置でしょうし、パンフレットでトニー・レオンも読んだことないとか言ってたのが象徴するように、日本はおろか中華圏でもすでに仕舞われつつある教養の方になっちゃってるのは確か。かくいう僕も人形劇とマンガが原体験(^_^;) 
しかしだからといって、前説つけるものでしょうか。それやり出したら、ジョーンズ博士の水晶髑髏の王国も前3作の理解なしにはつらいし、指輪物語三部作もそうだし、まして歴史物なんて最近のトロイとかでも全般アウトになると思うんですが。知っていればもっと楽しいけど、知らなくてもスペクタクルでエンターテイメントな楽しさをじゅうぶん味わえるのが娯楽映画だし、レッドクリフもその水準は満たしていたように思うんですが、中華&歴史物アレルギーでもあるんでしょうか。
ただレッドクリフ自体褒められた出来かといえば、長い時間かけて俺たちの戦いはこれからだジョン・ウー先生の次回作にご期待下さいと終わってしまって、ややずっこけたのは事実だったりします。古典作品をやるからって、伝統芸能全般が持つ冗長さまで真似んでもと思ってしまいました。

書のシーンで楷書ができる前だから隷書の筆運びだね、とか、穴道でばりばり言ってるのに訳してないじゃん、とかいたって趣味的な小ネタを見つけて楽しんでいましたが、全体の構成でなるほどと思ったのは、主役の二人、周瑜諸葛亮の扱いと、その他の英雄の扱いとの違いです。
ちょうど観に行く前に、夏目さんとモダンをめぐる人物造形の問題について、『線が顔になるとき』*2では観相学との関係が論じられてて僕の趣味に合うよとおすすめされたときに話していたもので、ついそういうことを考えていたわけですが(^_^;)
ようすれば、近代的な内面のある人物として描かれていたのは周瑜諸葛亮だけで、そのために三国志の文脈からは逸脱した造形がなされ、そしてそれ故に主役はこの二人であるというのがよく分かるのです。対して、その他の英雄は内面は問題とならない神話的な存在として描かれ、それは例えば関羽の顔が赤いといった見た目の造形にとどまらず、その行動においてしばしば見栄が切られているといったような、三国志の文脈に忠実であると同時に、それ故に現代の物語においてしばしば脇役はステレオタイプに描いてすましてしまうという演出を裏切っていないという状態になっているのです。
おそらくオリジナルの武侠物や歴史物であれば、主人公のみを人間として描き、あとはおまけにすることで十分エンターテイメントとして楽しめる作品になったでしょう。たいていそんなもんです。登場人物全員を人として扱っていたら活劇としては冗長この上ないものになってしまいます。それはまた別のジャンルのやり方です。
レッドクリフの問題は、活劇として正しい選択をしたにも関わらず、その対象が古典の名作であったために、内面を落としてなお語らざるを得ないことが多すぎたことにある、ということかと思います。
もっとも問題といっても、そういうものだと思い切れば、一粒で二度おいしい映画と言えるかもしれません。現代的人間ドラマと古典作品の映像化とまとめて楽しめばよいわけです。実際、僕は合戦シーンは神ならぬ普通の人間ではどうにも手出しのできぬ英雄の暴れっぷりをどこまでリアリティを持たせて見せるかという、現代的解釈に寄せた神話的物語の映像化として楽しみましたし、他方で周瑜×諸葛亮(と書くとBLぽいなー)を中心としたトレンディドラマとして楽しみました(^_^;)
個人的な不満は、時間長くてもいいから、間に休憩入れてくんないかな。飲み物買い足したり、トイレ行ったりさせてくれ、というものでしょうか。

*1:http://redcliff.jp/

*2:[asin:4409100254:detail]