Under the hazymoon

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燃やした骨にも霊力はある

環境/文化研究会(仮)の例会でid:monodoiさんの発表を聞いて、風水などにみられる遺骨/遺体に生者と死者の霊魂の濃密な結びつきを想定する伝統的な霊魂観からすると、自然葬は拡散する無関係な他者の霊魂によって浸食される暴力になりうる可能性があるといったような話になって、近代的な問題として立ち現れてますねと話しつつ、でもそもそも火葬しちゃってたら、骨に霊魂は宿れるのだろうかという疑問がでてきて、充実した議論となった*1ところ、シンクロニシティですかね、授業で扱った風水の論文がまさにその問題を扱ってました。

『大地は生きている』*2所収の韓敏「福禄寿の獲得装置としての風水(安徽)」という論文では、安徽省の農村における風水の受容についてのフィールドノートで、そこもおもしろく読めるのですが、まとめの部分に研究会での議論に関連する以下のような言葉が出てくるんですね。

中国では個人の運命は、決して個人のものだけとして考えるのではなく、それを、一家、一族の中でとらえている。なぜかというと、個人と祖先の間は、風水という媒介を通して、つながっているとされるからである。つまり、個人の命を、完全に独立したものではなく、一家、一族という永遠に流れていく生命の川の一滴としてとらえる。この意味において、風水信仰と儒教的な家族主義は、相互に互いの存続に寄与するものであると考えられる。
(p.26)

「永遠に流れていく生命の川の一滴」という表現がすっと出てくるのは、風水の言説の中にもともとあるのか、それともほうじょうさんの言われるような最近(といっても2,30年単位)のトレンドに由来するのか興味ありますが*3、ともかくそうした前振りのもと、中国では土葬が禁止されて火葬が実施されるようになってきている現状を踏まえて、

例えば、北京、天津、上海、広州、瀋陽などの大都市では、遺骨を海に撒いたり、あるいは遺骨を深く埋葬し、その上に植林するという処理方法がひそかなブームになっている。周恩来元総理は、生前、葬儀慣習の改革について、次のように指摘している。即ち、遺体を保留する習慣から火葬に変えることを、第一次葬儀革命という。火葬後の遺骨の保留することから保留しないことへの転換を、第二次葬儀革命といい、こちらの方がもっとも徹底した革命である、と。周恩来自身や、元国家主席の劉少奇、蠟小平などのリーダーたちは、自ら徹底した無神論者であることを示すためもあって、遺骨を河や海に撒いた。
(p.27)

とされる一方、陰宅地理に関する渡邊欣雄の説を引いて「骨こそが気というエネルギーに乗じて、死者の子孫に影響を及ぼす」という考えが風水信仰の基層であるとして、いくつかの火葬の例を挙げつつ、次のようにまとめられています。

たとえ火葬に付された遺骨であっても、民衆にとっては、依然として霊魂が宿っている骨であり、風水を媒介として神秘的な力を持つものと解釈され直していると言えよう。これは、火葬が強制され、普及しつつあるという新しい社会情勢に対応して、民衆側が従来の風水信仰を柔軟に調整した結果、と解釈できよう。
(p.28)

なので、火葬であるかどうかより撒くか撒かないかの方が信仰的には問題ということになりようです。

*1:ほうじょうさんのブログも[http://blog.goo.ne.jp/khojo0761/e/84801607df49fc01b3c03e6b6204fa18:title=ご参照]。

*2:[asin:492510831X:detail]

*3:この論文の最後は「我々の生活の中には、科学知識だけでは説明しきれない、神秘的なものが依然として残されているからこそ、風水信仰もまた、その存在価値を見いだしているのではないだろうか」といささか微妙なまとめられ方をしているのも、気になります。著者は1960年生まれ。