Under the hazymoon

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ちゃんと大人を描いた『電王』

 「僕はもっと成熟した主人公が好きかな。千両役者がズズズイーッと謎を解く「電王」みたいな話の方がいいなあ。」と結んでいる中野さんの『電王』評*1を読んで、今更ながら宇野さんの仮面ライダー批評*2のすっきりこなかった理由がわかりました。
 宇野批評では、『響鬼』の「大人の導きによる成長」というテーマを否定し、『電王』の「他者とのコミュニケーションによる成長」という成熟モデルを推し、両者を異なる構造を持つ作品としているのですが、中野評が冒頭に喝破しているように『電王』でのライダー/主人公をモモタロスたちとすれば、実際ライダーとしてのほとんどは彼らが戦い、最後の方で成長した良太郎が彼自身ライダーとして戦うようになっていて、つまり『響鬼』の理想的な結末が『電王』では描かれているわけで、実はどちらの作品も大人が子供を導く物語になってるんですね。じゃあ何が違うのか。

 僕も実は作品としては『電王』を推すんですけど(造形的世界観的には響鬼の方が好きだけど)、その理由は「ちゃんと大人が描けている」物語として、「少年の成長」を描いたビルディングスロマンとして成立しているから、なんです。おとぎ話の登場人物の名を冠してこそいますが、モモタロス御一行の方が『響鬼』の鬼たちよりもリアルな大人なんですよね。子供っぽかったり、いい加減だったり、ずるかったり、大人だって子供とそうは変わらない、ただ年の功だけしなやかさがあり余裕がある、そういう本物の大人としてモモタロスたちは描けていたんですね。
 『響鬼』の「完成した大人」の嘘くささを宇野批評は批判できたのに、『電王』で子供を対等に扱っていた大人たちの存在を宇野批評は発見できてなかったわけです。そのへんの幼さが宇野批評をおもしろく読みつつもその攻撃性に鼻白んでしまう所以なのかもしれません。世間ってもっと広いよ、とありきたりな感想を述べざるを得ない。
 いや実際、僕自身高校生の頃、友達で30になる前に死にたいとか行ってた奴がいたりして、そのときの感覚なんて30なんてもうおっさんもいいとこで、40,50なんてもう死んだも同然だったように思います。でも現実に、自分が20代の頃40代の人たちと遊んだり、また現在30代になってやっぱり50代の人たちと遊んだりしてもらってると、だいたい響鬼よりもモモタロスみたいな大人の方が多いんですよね。ようするに大人像としての響鬼は、古い道徳観念に囚われた云々とかそういう小難しい話じゃなくて、端的にリアルじゃない。年齢的な幼さを感じるんですよね。学校の先輩程度の大人でしかない。モモタロスの方が社会に出てからの大人像として、リアルなんだと思います。

*1:http://blog.livedoor.jp/n_tko/archives/51103830.html

*2:[asin:4152089415:detail]第十二章「仮面ライダーにとって「変身」とは何か−「正義」と「成熟」の問題系」