Under the hazymoon

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中国哲学は再び壁を目指すか?

研究会の発表で、導入に村上春樹さんのエルサレム賞受賞スピーチ*1を援用しつつ、議論をすすめました。内田樹さんが示されたように*2、政治的な文脈でなくより普遍的な言葉として読んだとき、やはり僕は作家を中国哲学者に置き換えて(ここでは特に古典研究を業とするストロングスタイルを念頭に)考えたのでした。

その学史を考えたとき、少なくとも前近代の儒教は、むしろ壁であることにその存在意義がありました。それに、内田さんがシステムを記号に置き換えても通じると指摘されてるとおり、そもそも学知というものは壁を指向するようにできているし、またそこに価値があるのだと孔子の時代から考えられてきたわけです。しかし、その価値と意義は認めつつも、やはり司馬遷が嘆いたように、人は常に壁からこぼれて卵に戻ってしまう。どちらかといえば道教
儒教と逆に卵の側に立つことを目指してきました。もちろんそこでも壁と卵の関係は縮小再生産され続けるのですが、それでも傾向としては、壁と卵、儒と道という関係性がひとまず成り立つ。もちろんその両者はグラデーションで、あわいに宋学があったり、さいはてに仏教があったり、まあいろいろです。
問題はそういう歴史の話をしながら、やはり今ここのことを考えなくてはいけないわけです。近代以降、中国哲学が壁として屹立することはなくなった(し、今や近代側にあった哲学や文学すら危ういことは周知の通りという)わけですが、では現代において中国哲学を問うとき、再び壁の側に立つことを志向すべきなのでしょうか。
もっとも問題は、どっちに立つかではなく、どっちに立とうとしているか自覚はあるのか、結果としてどっちに立った議論になってしまっているか省察しているか、ということなんですが、さて。。。
僕は個人的には卵のままでええんでないの、と思って、それにもとづいた議論を組み立てようとしていますが、そのへんはまだうまくいってません。ただシステムをアーキテクチャに置き換えれば、実は現状は当然のごとく村上さんの劇画化したようなはっきりとした問題設定ができないことは明らかで、そのはっきりしなさもやはり引き受けなければ、中国哲学(いや思想と言い換えてもすべきことは同じでしょ?)で今を生きることにはならないでしょう。

*1:http://www.47news.jp/47topics/e/93635.php

*2:http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php
http://blog.tatsuru.com/2009/02/20_1543.php