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nomurahideto's blog

http://researchmap.jp/nomurahideto/

伝統的身体を計測するには

CH82に参加してきました。モーションキャプチャ関係は最近自分が身体的な実践に取り組んでるので興味がありました。最後の一つは参与観察のために退席したので聞けなかったし、その後のネクストSAT関連もすごく聞きたかったので、非常に残念でした。

古典研究やってるから余計にそう思うのですが、一連のモーションキャプチャ研究の問題の遠因は、伝統的な身体や学びに関する先行研究をあまり踏まえてないことではないかと思います。いや社会学系の伝統芸能研究は、学びについて師弟関係の社会性とかだけを問題にしていて、かんじんのどうやって身体を練るかという実践について身体そのものに踏み込んだ議論をしていないので、モーションキャプチャのような身体の動きを計測する上では参考にならんと思うんですよね。

では先行研究がないかというとそんなことはないんです。そこはすでに我々が百年前に通り過ぎた場所だっ!とつい言いたくなるわけですが、だいたい20世紀前半には伝統的な修練をいかに近代科学から説明するかという試みはけっこうなされてきているんですよね。最近、明治大正期や中華民国初期の文献を読んでるんですが、現在なされている伝統的なものの近代化についての議論のひな形をけっこう見出せるんですよね。だから、まずそこを参照して、伝統的身体の近代モデル化からはじめて、それを基礎として、現実の身体の計測の結果と比較しないと、実際の練習の役に立つような知見は出てこないんじゃないかと思うのです。

まあ、なんでビデオ映像じゃだめなのかみたいな素朴な疑問程度は、すぱっと切り返せるような想定問答集ぐらいあるのかなーと思ったら、関係者が「役に立つ」と言ってくれてます、という何の客観性もない答えだったので、困りました。計測するのが大事なら、そこから計測しようよ、というのが人文工学的感想。

そもそも学びの上では「気づき」「理解」が目的であるってのが、まず間違い。目的は「上達」でしょう。極端な話、まったくきちんとした説明ができなくても、それが上手にできれば問題ないわけです。身体を使う学びって、結局トレーニング、反復練習ですから。実際に動けるかどうかが問題なのだから、これは不可避でしょう。
例えば腰を落とした移動ができていないことについて、モーションキャプチャ(これはビデオでも同じだが)見て、腰が落ちてないことに「気づき」、「理解」したって、結局練習繰り返して腰を落とすのに必要な筋肉をつけないと実行できないわけね。

だから大切なのはその反復練習にどれだけ役に立つの?というところで、抽象化や数値化によって納得して(例えばスカウターよろしく民謡レベル1036、ピピッとかゲーム性を出したりするのはおもしろいかも)と出る方がやる気がでるんです、という答えはなるほど、可能性はあるでしょう。実際、理屈の裏付けがないままひたすら練習を続けることに根気負けして学ぶことをやめちゃう人はいるので。しかしそうした人にとってモーションキャプチャがやる気を引き出すのかどうかは、それも残念なことに根拠レスでした。
あるいは、実際に追跡調査をきちんとして、ビデオやそういう助けなしに練習したのよりもモーションキャプチャの方が効率よく練度も高かったという証拠を出してほしいんだよ〜。本当にそういう結果が出たらそれはそれで非常におもしろい!のに。まあ、正直なところ懐疑的ではありますが。

むしろに計測してほしいところって、例えば筋電図などを使ってある動作で身体のどこを使っているとか、重心のバランスをどうとっているとか、身体内感のような目では見えない部分。実際の動作や教える言葉(口伝の類から日常的な教えの場まで含む)とかでいちばん問題になるのはそこで、例えば、腰を入れろと言うとき実は足の親指にいちばん力がかかっているとか、言葉と身体の齟齬が生じる可能性が高い、というか実際そうした事例が散見されるわけです。そこをもし計測できれば、学習者としていちばん知りたい暗黙知みたいなものを翻訳して理解できるし、近代的なトレーニングと接続してその他の運動やスポーツと併習することがより容易になるし、型の学習自体の内容を更新できる可能性があります。近代的な科学的なトレーニングは意味がないとかわりあい共有されている考え方なので、それをひっくり返せるようなポストモダントレーニングを発案できたらおもしろいかも。