Under the hazymoon

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馬貴派の学びは禅問答に近い

僕はだいぶ慣れてきましたが、李先生に分からないことを尋ねても自分の聞きたいことを端的に答えてもらったことはあんまりないんです。最初それは語学力の問題だろうかと思い、あれこれがんばってみたものの、結局たいていは、あんまり考えずに走圏しなさい、という答えが高確率で返ってくるだけでした。今は多少なりと分かります。結局、走圏力が足りなかったのだと。走圏力って何やねん、という話はさておき(^_^;)

身体が大きく関わる学びの場においては、こうした事態はしばしば生ずるのだと思います。本来の目的が眼前の動作自体が見たままできることではないのですから、師としてはより高みに向かって押し出すような教えをするのですが、他方、弟子からするとその教えは迂遠だったり焦点を外しているように思えます。斜め上の正解のないやりとりが交わされる、禅問答のような世界とでもいいましょうか。
しかし、むしろそのような応答こそが、実は教育上意味があるのであって、自分の期待する答えが返ってくるのでは、そもそも教わる意味がないという内田樹的先生観が当てはまるのかなと思います。つまり、よー分からんなあと、いろいろと試行錯誤してみる、その過程を積み重ねていくことそれ自体が学びと考えた方が得るものが多いのではないかと。その繰り返しをしているうちに、身体が変化していくと、結果として問題が解決してしまう、そういう事態にだいたいなります。
もちろん迷いは大きいです。実際に実践するとなると、なかなかうまくできるものでもなく、李先生からあせるなあせるなとよく言われます。じゃあもう少し分かりやすく整理した教え方をしてもいいんじゃないの、という考え方もあるでしょう。しかしこうした考え方はきわめて伝統的な知のあり方なので、そこを分かりやすくしてしまうことに対して、僕は大きなためらいがあります。まあそもそもそうした古典の知恵を研究している立場の人間が、いりませーんとはまあ言えるわけもありません。むしろ、個人的にはそういう知恵が実際に現代においても効果を持ちうるのだという立場から試行錯誤している次第です。分かりにくいことを分かりにくいまま伝わりやすく書き直す、ずっと課題としてますが、なかなかうまくいかないものです。