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懐古趣味と性善説

人文系の人に時折見かける反グローバリズム病の解毒薬シリーズとして、『経済成長って何で必要なんだろう? 』を読んでみました。
僕の専門からは直接貢献できることは少ないわけですが、数少ない関係するネタが、終章で触れられていた「懐古趣味の壁」(pp.244-250)でしょうか。
「最近『三丁目の夕日』症候群というべき、「昔はよかった」という言説が、どの分野でも流行しているように感じ」られるが、実は「日本では、ともすると懐古趣味が社会改革の原動力にな」ってきて、「この不思議な懐古趣味が」、「日本的な思想家、日本思想の底流にあるんじゃないか」と感じられる。「実際、勤王の志士たちが目指した「勤皇の世界」は、日本に存在したことがない。いま変に懐かしがられている昭和30年代というのも、実際には存在しなかった昭和30年代」であって、「こうした懐古趣味が、実際の技術的な問題として、人々の生活をよくしていこう、経済成長によって改善していこうということに対して、大きな壁になっている状態」で、ようすれば「過去へのノスタルジーが、現在をおとしめるために呼び出されている」のだ、とそういった議論がされています。
しかしこの懐古趣味、不思議でもないし、日本特有のものでもないことは、中国哲学をかじった方にはすぐに了解できるでしょう。

堕落した現代から古代の理想への復帰というのは、儒教の基本的な歴史観であると同時に、中国では王朝交代における正統性を担保するものとして繰り返し語られてきた物語だからです。
だからといって、日本社会はやっぱり儒教社会であった、とかそんなことを言うつもりはありません。紀元前の中国から現代の日本にまで同じ現象が見出されるとき、歴史的な因果関係を検証するよりも(古典研究者としてはそっちかもしれんけど)、むしろこれは人間が普遍的に持ちうるある種の価値観の反映ではないかと考えてはどうだろうかと思うのです。単に不合理であると切り捨てられない価値観があると。それが分かれば単に打ち壊す壁ではなく、再利用すべき建築資材とできるでしょう。
で、僕は、こうした懐古趣味の底流にあるのは、性善説ではないかと思うのです。性善説とは、人間は本来善なる存在として生まれてくるが、諸般の事情があって悪に染まることもあるので、よく学んで本来の善性を発揮しようという人間理解の立場です。本来よい状態だったのに現在は悪い状態にある、これを社会にあてはめれば懐古趣味となるでしょう。そして儒教的世界観においては、社会は個人の延長ですから、そのような投影は何ら不自然なことではありません。
孔子からして誰もが生まれながらに善人だとは考えてないわけですが、しかし、性善説というのは人であれば誰もが体験的に経験しうるものです。恋人の笑顔を無垢なものと思うのは望ましき錯覚としても、しかし赤子の笑顔に何か裏に意図があると考えることはありません。生まれ落ちたときから邪悪さを発揮する赤子に出会った人間はおそらくいないでしょう。性善説には生理的な根拠がある、といってよい(もちろんだから「正しい」とはかぎらないわけですが)。
ところで性善説がもっとも力を発揮するときはどんなときでしょうか。現実には善なるものからほど遠い出来事に出くわすこともままある。そしてその状況がどうしようもない悪意に満ちているとき、人は本来善なる存在なのだというわずかな可能性に賭けるしかない状況があるとき、人は性善説の立場に立つしか救いを求められないものだと思います。
つまり現実の困難さが強く意識されるほど、人は人を信じたいからこそ、性善説に頼るのではないか、それが社会に対しては懐古趣味として表出するのではないか、というのが僕の見立てです。
もしそうした見立てが正しければ、懐古趣味を打ち崩すことが難しいのも当然です。単に懐古趣味を否定するだけでは、他者の善性を信じるなと言われるようなもので、それは同時にその当人の善性を否定することになるからです。したがって戦略的には懐古趣味の奥にある性善説を引っぱり出して、それを過去でなく現在に向けるようにした方が、建設的ではないかと思います。

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

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