Under the hazymoon

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天人相関の理論と実践―風水と煉丹術―

  • 宗教学会のパネル「宗教とエコ・フィロソフィ―東洋の宗教伝統を中心として―」で報告しました。
  • 論文化にあたっては、参考資料をもう少し整理して各素材の記述をふくらませないといかーん(>_<)
  • 基本的なコンセプトはエコ・フィロソフィとして「いかにもそれらしい」体の天人相関の思想を整理し直した後、そこからの現実の逸脱としての風水や煉丹術を示すことで、思想を思想としてのみ扱うことの限界を示すというメタな批判構造を意図していましたが、議論をつくせませんでした。
  • 個人的な感想は以下の通り。
    • 「科学的な正しさは倫理的な正しさに直結しない」ということこそ、まず人文系が強調すべきかと思います(cf.ニセ科学にまつわる諸議論)。近代否定とか合理的思考否定とか科学の限界とかそういう方向に持っていくのでなく、ですが。
    • 同時に、歴史に関わる以上は、程度の差はあれ現在の状況に対して足を引っ張る後ろ向きな態度にならざるを得ないはずで、哲学や思想の確立をもって指導的な立場に立とうとしてはダメなんじゃないかと思います。
  • そんなわけで、僕だけちょっと立場の違う発表でした。まあ若手は鉄砲玉で変わったこと言うのが仕事かなーと。
  • ということで、以下その配付資料。

1.はじめに

東西の自然観をいうとき、しばしば我々は調和と支配を対置しがちであるが、中国では、人間は自然を生きていく上での規範としつつ、同時に統制の対象ともしてきた。その自然観を代表するのがいわゆる天人相関の思想であり、その工学的な実践として風水や煉丹術がある。それぞれの内容についてはすでに多くの研究が存在するので、その成果に拠りつつ、ここではエコ・フィロソフィを考える上での重要な論点を示してみたい。

2.天人相関の思想における自然・社会・個人

まず儒教による帝国の体制理論を組み立てた漢の董仲舒から当時の代表的な天人相関の思想をまとめてみよう。確かに「國家將に失道の敗有れば、天乃ち先ず災害を出して以て之に譴告す」(『漢書董仲舒伝)と超越者としての天が人間に賞罰を与えるという考え方も見出せる一方で、天人相関の議論で多く費やされているのは、「天地の間に陰陽の氣有り。常に人を漸(ひた)すは水の常に魚を漸すが若きなり。水と異なる所以の者は見るべきと見るべからざるのみ。……是の澹澹の中に治亂の氣を以て之と流通して相殽饌するなり。故に人氣和調して天地の化美たり、惡に殽(ま)じれば味敗る。」(『春秋繁露』如天之爲篇)といった自然観を背景として、「刑罰中らざれば、則ち邪氣を生み、 邪氣下に積めば、怨惡上に畜(あつ)まる。上下和せざれば、則ち陰陽繆(みだ)れ盭(もと)りて妖孽生ず。 此れ災異の縁りて起こる所なり」(董仲舒伝)と考え、人間の行いが天地の運行に機械的に影響を及ぼしうるという理論を構築したのであった。
また社会の統治にあたって儒家が課題としたのものに「徳」と「刑」の調整があるが、これについても「天道の大なる者は陰陽に在り。陽は紱を為し、陰は刑を為す。刑は殺を主り紱は生を主る。是の故に陽常に大夏に居り、生育養長を以て事と為し、陰常に大冬に居り、空虚不用の處に積む。此を以て天の紱に任じて刑に任ぜざるを見るなり」(董仲舒伝)と天地自然の道理に社会政策上の倫理的根拠を求めつつも、「陰陽の氣は上天に在り、亦た人に在り。人に在る者は好惡喜怒を爲す。天に在る者は暖清寒暑を爲す」(如天之爲篇)と個人の情緒的な側面までの対応が天と人の間にある以上は、「紱を留めて春夏を待ち、刑を留めて秋冬を待つや、此れ四時の名に順ふこと有るも、實に天地の經に於いて逆らふなり。人に在る者も亦た天なり。奈何に其の久しく天氣を留め之をして鬱滯せしむれば以て其の周行を正すを得ざらんや」(如天之爲篇)と、原理的な対応が常に真ではなく、人間感情の自然な発露に根ざした行為を重視した。

3.風水と煉丹術における自然の統制

「氣風に乗らば則ち散じ、水を界とすれば則ち止まる。古人これを聚めて散ぜしめず、これを行いて止まらしめず、故に風水と謂う」(郭璞『葬経』)ように、ただ自然の法則に従うだけではなく、人間側から積極的に働きかけていくのが風水の基本的な態度である。実際、先祖の墓地の場所を定める陰宅風水にしても、住居環境を定める陽宅風水にしても、もちろん最も重要なのは「気」のよく集まる最高の自然環境を求めることであったが、人々は当然のように、時に人工的に川の流れを変え、時に塔を山の上に立て、人間の手で自然を操作しようとした。
そこから一歩進めば、その自然法則そのものを拒否しようとするようになる。永遠の性命を求める煉丹術では、「天地に後れて生ずる者は、皆天地の内を離れず。有形なる者未だ嘗て壞れざるなし。安ぞ能く變化して天地の外へ超えんかな。天地の外に超えずして有形なる者は、未だ始めより陰陽生死の數に墜ちざる者にあらざるなり。夫れ陽生を主り、陰死を主る。一死一生、一往一復、此れ理の自然なり。……是の故に聖人先天一氣を採りて以て丹と爲す。煉形して一氣に還歸し、煉氣して神に歸し、煉神して道に合して無形の形に歸す。故に能く大地の外に超え、造化の表に立つ。」(『紫陽眞人悟眞直指詳説三乘秘要』悟眞直指詳説、DZ一四三)と、むしろ天地と調和しているかぎりにおいて人間は死の運命から逃れ得ないため、天地以前の根源的存在である道によって天地に等しい存在になろうとするのである。ただし、煉丹術の文献ではしばしば「天地を盗む」「造化を奪う」といった表現がなされ、特別に許された者だけがそれをなしえるのだとしており、天地自然による人への拘束力の高さは常に意識されている。

4.まとめ

以上のように、天人相関の理論を推し進めれば、こと自然環境にかぎらず、個人の生活から社会政策の問題までもが自然の調和的なデザインの対象となる。しかし風水や煉丹術の歴史からも明らかなように、倫理的な正しさを一意的に自然に求めるだけではうまくいかない。報われていない現実があるからこそ、常にその調和を引っ繰り返そうとする試みがなされ続けてきた。つまり、どの選択に優先順位があるのか、それは人の社会が「邪気」を出さない方向へと合意が取れる選択こそが望ましい。エコ・フィロソフィの射程がそこまで伸びてこそ、真に価値あるものになるのではないだろうか。

主な参考資料

  • 王其亨主編『風水理論研究』、天津大学出版社1992年
  • 楽愛国「天人合一:道教対人天和諧的追究」、『道教生態学』第三章第一節、社会科学文献出版社2005年
  • 金谷治「董仲舒の天人相関思想−自然観の展開として−」、『金谷治中国思想論集 上巻 中国古代の自然観と人間観』第一部第八章、平河出版社1997年
  • 戸川芳郎「原初的生命観と氣の慨念の成立」、『漢代の學術と文化』第一部、研文出版2002年
  • 聶莉莉他編著『大地は生きている―中国風水の思想と実践』、てらいんく2000年