Under the hazymoon

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よいことを“させられる”のはよいことか?

養老天命反転地は実際に見てきた*1ときにいちばんハテナだったのは、天命に逆らう取り組みには長い伝統あるのに、そういうのに関係なくこういうことする必要あるのかな?というものでした。もちろん楽しくはあったんですけど、例えばベタに周りに自然あるんだしそこで遊べばいいやんと思ってたわけですね。
なので、宮崎駿さんが荒川修作さんと友達で、この天命反転企画を評価しているというのを知って、えーそうなの?と違和感を持ったのでした。こういう作為に満ちたのが好きっていうのはどうにも一連の宮崎作品からは出てこないなあと。

でも、宮崎さん実際に荒川作品にインスパイアされた都市や住宅のデザインを描いた「養老さんと話して、ぼくが思ったこと」*2京都国際マンガミュージアムの展示で見て*3、ああ、これ読んでたのにそんときはすっぱり忘れてたんですね。このブルドックが荒川さんだったか(宮崎さんはブタだった)。
イラストの中で、宮崎さんは町並みや家の内装はむしろレトロにデザインしていて、荒川作品の目玉であるでこぼこな床というのは住居ではさくっと不採用、保育園の床や学校の教室(宮崎×養老対談でも言及、p.63,73など)はでこぼこでもななめでよいという感じ。つまり実際に自然で冒険する機会が減った都会の子供に代替物として必要だろうということで、生活の基調は何か特別に新たな可能性を探るとかそんなんでなく、きわめて昔ながらの生活習慣に見出せる“よきもの”に寄り添っているんですね。つまり非日常の祝祭空間としての学校にならふさわしいけど、日常の生活からは宮崎さんは思いっきり排除しているわけです(思惑を違えていることには宮崎さんは自覚的)。
しかし僕は、確かに都市の現況を考えるだに悩ましいですが、それでも学校にもそういうの持ち込むことは微妙であるなと思うわけです。だって、そのような環境におかれた場合、子供は“絶対に新たな可能性をひらく”ことと期待されます。でも、でも、もしそうならなかったら、その子はどうなるのでしょうか。アーキテクチャの問題と絡んでくると思うんですが、誰もが踏まざるを得ない地面をそのように変えてしまうことは、そこから落ちこぼれた者の可能性を完全に奪うことになるでしょう。選択の余地自体がなくなってしまうことは残された選択がどれほどすばらしいものであったとしても、それは人にとって真に幸せなのか。これはマンガ版ナウシカの最後*4でナウシカのたどり着いた問題意識に重なります。実際、宮崎さんは上のイラストに書き込んだ「のうがき」で、

ぼくは、神さまの眼で町をデザインしたくないので、保育園の子供の目で、その町をかいてみます。

と、荒川さんのデザインで実際に町作りを行う場合の致命的な問題を指摘しています。同じページの荒川ブルドックの描きようを見てもたぶん自覚的な批判でしょう。そこに人は住めないでしょう、と言ってるように思えるのです。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20061022/p3

*2:[asin:410134051X:detail]

*3:http://b.hatena.ne.jp/articles/200909/448

*4:[asin:419210010X:detail]