Under the hazymoon

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神学、宗学、そして経学?

日本中国学会大会に参加してきました。
哲学・思想部会の最初の報告は『文心雕龍』における表象としての易卦に関する話題で、内丹研究からしてもその出自のいったんとなりうるもので興味深かったです。もっとも報告自体は、表面的に見えるものの奥に別のものが隠されているという比喩として、ある易卦から別の卦を抜き出すことと川の中に珠玉がかくれていることの二点を並記しているのに、易卦の譬えだけ取り上げて全体の論理的な背景に格上げするという、かなり無理筋な議論でしたが。文献いっぱい引っ張ってくれてたので勉強にはなりました。

次の報告は、陽明学における顔回論でした。報告者の院紀要の論文を読んで、うわーと思ってたんですが、この報告もレジュメのつくりから全開で、信仰告白でした。まあキリスト教に神学研究があり、仏教に宗学研究があるので、別に中国学にそういった立場でなされる経学研究があっても、それをことさらアカデミズムではなーいと非難する気は最近とみになくなってますし、実証的で客観的な研究を謳っておいて実体は。。。というのに比べれば、いっそすがすがしいのかもしれません(^_^;)
もっとも問題は別にあって、どうにも誤読というか勝手に読み替えているんですよね。

顏子『有不善未嘗不知,知之未嘗復行』,皆指功夫而言也。人知未嘗復行為難,不知未嘗不知為尤難。
『龍溪王先生全集』巻五・與陽和張子問答(一)*1

とあるんですが、これは、

人物 内容A 内容B
顏子 未嘗不知 未嘗復行
不知未嘗不知為尤難 知未嘗復行為難

とわかりやすく対になっているので、「皆指功夫而言也」の意味は内容Aと内容Bがどちらも「功夫」であると言っている以外には読みようがないでしょう。
ところがそれを内容Bは「工夫」だが内容Aは生得的な「能力」と言い張るんですね。能力の定義を確かめたら生得的なものであると答えたので、日本語の問題ではどうもない。
それで最終的な結論が、顔回はそういったすぐれた能力を持っていたということを陸九淵も王龍渓も顕彰していて、両者の違いは後者がそれをより詳しく解説している、というものでした。
それが結論でいいの?それだと本当に信仰心の発露で終わってるよね、と思ったので、懇親会でもテキストの読みから突っ込みを入れていったんですが、内容Aは「良知良能」のことなんだ、だから能力なんですと強弁するので、その根拠となる文献が示せてないよね、それにそもそも何を他に持ってきても、文章の構造上そうは読み替えれないよね、という内容だったので、どうしてそうなの?と重ねて追求したところ、いやS先生がそう言われてるのでとか自分の師匠を出してこられました。えーと、そういう典拠主義って陽明学では否定してなかったっけ?
そもそも「良知良能」は生得的な力で誰でも持っているので何ら「功夫」を必要とせず発揮できるのなら、すでに世界は理想郷になっているはずなのですが、現実にそうなってないし*2、それを当の王龍渓もそうした現実を認識しているからこそそもそも言葉を紡いで主張しているわけでしょう。だって問題解決されてハッピーな世の中ならわざわざ何か言う必要ないんだもん。だから何の「功夫」もなしに「良知良能」が発揮されるという理解は、テキスト上どう書かれていても、論理的な帰結として、まったくの勘違いとして切り捨てざるを得ません。もし本当にそういうことが書かれているのであれば、実践性が皆無なのでまるで価値のないお花畑テキストということになります。僕がぐりぐりっと前後のテキストを眺めたかぎりではそのようには書かれていませんでした。
そもそも該当箇所の問答においては、そもそも質問者が、

顏子『有不善未嘗不知』,即良知也;『知之未嘗復行』,即致良知也。
同上

といったことを言っており、上の一文はそれに対する答えとして発せられているんですね。そして後文では、

若以未嘗不知為良知,未嘗復行為致良知,以知為本體,行為功夫,依舊是先後之見,非合一本旨矣。
同上

と、「未嘗不知」を「良知」と解釈するのは知行合一に反することが指摘されています。
ではまったく「良知」と関係ないかといえば、そうではない。

顏子有不善未嘗不知、未嘗復行,正是徳性之知、孔門致知之學,所謂不學不慮之良知也。
《龍溪王先生全集》卷六・致知議略

顔回の行いは「紱性之知」「孔門致知之學」「不學不慮之良知」なのだとしています。この発言は上引の問答と一見矛盾するように思えますが、ポイントは顔回における内容Aと内容Bをセットで挙げていることです。別の箇所でも、

孔門之學,顏子有不善未嘗不知、知之未嘗復行,此徳性之知,謂之屢空,空其意識,不遠之復也。
『龍溪王先生全集』卷八・意識解

とやはり内容AとBをセットで挙げた上でそれが「徳性之知」としているんですね。
ようするに顔回の「有不善未嘗不知,知之未嘗復行」全体が良知の現れとしての「孔門致知之學」、つまり学んで実行すべき「工夫」ということなんですね。ここで、良知を王龍渓自身が「不學不慮之良知」と呼んでいることを指して、学ばずとも人はそのように良知を発揮できるのである、と読むのはレトリックを解していないということが分かります。学ばないことが学びなのだというのは、何もしないということではありません。実際、顔回の行いを「徳性之知」であるとした上引の二段ではどちらもその後ですぐ子貢に言及が及び、例えば巻六の場合では「子貢務於多學,以億而中,與顏子正相反。」というように、あくまで後代主流となった経典を学ぶということが否定されるべき学びであると対照的に示されているのです。
こうしたレトリックはもちろん、その他散見される表現も含めて、修行によって本来性を取り戻すという論理展開は、すでに禅でも内丹でも修養の実践的な技術に踏み込んでいる言説で構築されているもので、そういったテキストに目を通したことがあれば、勘違いせずにすんだはずなんですが。
もっとも、報告者ご本人は、思想史研究はやりたくない、哲学的な実践をやりたいという意気込みのようで、僕も正直好みとしてはそういうのが好きなんですが、それでやってることが思い込みによる先人の顕彰というのでは経学的な実践としてはオーソドックス(^_^;)だけど、現代的な意味での哲学にはならないように思うんですよね。むしろ王龍渓に会っては王龍渓を殺せぐらいの方がよいのでは?と悪魔のささやきをしてしまいました。
ともあれ、僕自身も最近は静坐ラブなので、王龍渓と内丹に関する専論もいくつかあることだし、このへんあたりから開拓していくというのもありかな〜。儒教の静坐については、岡田武彦『座禅と静坐』や三浦國雄朱子の気と身体』などがっつりした蓄積もあるので、とっかかりを見つけて切り込みたいところです。今はまだ周辺でうろうろ。

*1:http://www.hkshp.org/cclassic/songming/wangji.txtより。ただし元が簡体字のデータを機械的に変換したものにほどこした校訂が十分ではなかったようで、云うという意味でも「雲」のまま訂正されていないところが何カ所かありました。

*2:ただし僕個人は別の解釈の可能性、実は現代日本においては儒教的理想は実現されている、というものを考えていますが。