Under the hazymoon

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内丹法における価値の位階と欲望の強度モデル

内丹の研究で、常に注意しておくべきことに、理論的に構築された体系の上位にある価値が必ずしも現実での目標とはなっていないという事態があることです。べき、といいつつも、先行研究ではあまり気にされていないようで、僕だけが変に気にしているだけなのかもしれませんが、この問題は具体的には禅と内丹の関係をどう位置づけるかという宋代以降の内丹を論ずる上で重要な課題に関係していると考えています。更に言えば、実践として思想を見ていく場合、無視できない問題だろうと思うのです。
試みに以上のような問題意識から修行体系を図示するとこのようになります。

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縦軸は価値の位階です。ベクトルとしては上方向にいくほど、より高級で、より思弁的で、より聖性をもち、本質的である。対して下方向にいくほど、より低級で、より即物的で、より通俗性をもち、些末的である。例えば聖−俗としておくのが分かりやすいでしょうか。ただし忘れてはいけないのは、マイナスのベクトルにも同じような展開が起こり、こちらは俗−邪となります。
これまではこの縦のリニアな軸だけが想定されがちでしたが、ここに横軸として欲望の強度を導入してみます。広いほど強い欲望によって駆動され、現実に具体的なかたちをともなって顕現し、大きな影響を及ぼす度合いが高い。
上図では一応、三つの位階に区分しています。これはたとえば上中下三乗であり、内丹法の文脈では、いろんな線引きがあるけれど、
上:禅定による空の悟り
中:運気による内丹法
下:房中・外丹などの傍門
といったような区分がこれまでなされてきました。このうち上層は性修、中層は命修の技法で、両者は性命双修としてともに行われるべきものと認識されるものの、どちらを先に行うかという議論がここで生じてきます。
問題はここで、後に控える修行の方が上位の修行と思ってしまいがちなのですが、実はどっちを先に行っても、価値の位階としての構造上、実は性修の方が上位なんですね。しかし、実際に修行者がもっとも切実に行い、重視しているであろうことは内丹の修行でしょう。そのことによってもたらされる効果、不老長生の達成をもっとも期待しているはずです。もしそこをいちばん望んでいるのでなければ、そもそも内丹などを辞めて仏者なり儒者なりになるんじゃないでしょうか。
だから価値の体系上の上下をもって、修行の階梯を内丹を方便として悟りへ向かうというような解釈をしてしまうのは大きな誤りだと僕は考えます。俗な言い方をすれば、口で言ってることと手でやってることが違うとき、その人間をどちらで判断すべきか、ということで、僕はやはり言っていることは情状酌量に使えても、何をやったかで判断するのが順当であろうと思うわけです。
またこの構造は仏教の修行論に由来するだけでなく、同時に、伝統的な中国の天人相関、天=精神は清く人を導き、地=肉体は濁り人を育てる、といったような宇宙/人間観が基礎にあるため、畢竟、全体の見取り図としては否応なしに物理的なこの世の世界の縮図として設定されているという点も重要です。
つまりどこまでも実体的なものとして精神性を求める行為が位置づけられる土壌がある。そのことは端的に欲望の強度、現実を実際にどこまで変更できるかという意志の現れとして価値の位階とセットで評価しなくては、実際にそこで行われていることの意味には近づけないのではないか、そのように思うのです。
こうした視点の欠落は、あながち実践性を忘却しがちな研究者側の態度や方法論と呼応していて、それがあまり議論にならないのではないか、そんなことを考えています。