Under the hazymoon

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読書をめぐる冒険

京都では土曜日のシンポに続いて日曜は京都民俗学会でid:monodoiさんの報告を聞いてきたわけですが、期せずしてシンクロした内容になっていたように思うので、以下まとめて自分の研究に引き寄せた感想/妄想。勘違いあったら、びしばしご指摘ください。
まずもろさんの「経典に埋め込まれた身体的因果−仏教の実践論を考えるために−」は、これまでの研究ではともすればレトリックとして括弧に入れられ、教理に沿った解釈を与えられがちだった経典中の神秘体験に関する叙述に関して、それが教理とは無関係に流通しうる「身体的因果」として機能している点に注目することで、信仰告白にならない思想史研究としての実践論を目指すというものでした。
同じ物語の型が時代や地域を越えて繰り返し再現されることの背景に身体性を見るという立場は、僕が静坐の問題を議論の中心に取り上げた意図を言語化してくれもので、そういうことを僕はしたかったのかと自分で納得w
次に北條さんの「物語の初源としての禅観−〈伝〉の形成と利用からみる仏教の思想−」では、そうした神秘体験を記録した史伝は、修行の実践においてロールモデルとして参照されてきたという事実をさらに拡張して、宗教にとどまらない一般的な自己修養のための学習モデルとして東アジアに認められるもので、だからこそ逆に宗教的な観仏体験は先達からの教授という普遍的な物語として流通しうるというものでした。
史伝としての降霊記録というのは、中国古典を括弧に入れがちな近現代の道教研究で重要な視点だと思いました。やっぱり古典の勉強をもっとしないと!
このお二人の報告はおもしろい対になっていて、もろさんは物語の外部としての身体(≒教理並に強度のあるテクスト)によって、これまでの研究の経典理解の再考を迫るのに対し、北條さんはそうした先行研究のような身体を忘却した読み方それ自体も、伝統的な物語の流通様式の中に見出せることを示していたのかなと。それはちょうど、僕が考えた「伝統的な学者」と「近代的な研究者」の対立にそれぞれ対応していて、つまりということは、これは実践をめぐる立場の類型として僕が想定していたよりももっと根源的な問題なのだなと、勝手にまとめて納得してました。
そして次の日の土居さんの「高等教育の民俗学」は、高等教育の現状に近代(=増大する自己言及)と民俗(無意識・無反省に繰り返される日常)の対立をみとめ、その問題を民俗学として論ずることが実は柳田による近代民俗学の伝統でないかというものでした。民俗学を中国学に置き換えるとまさに僕が抱えている問題意識とほぼ同じではないですか。こんな変なこと考えてるのが僕一人じゃなくて、たいへんに心強いですw
人文情報学のような電子化への取り組みは人文学そのものを参与観察する契機になると考えていたのですが、それは文化人類学の問題というよりも民俗学の問題として考えた方が、特に日本の中国学を対象にする上ではもっとおもしろいかもと思った次第です。
あとアクターネットワークセオリーの可能性についても話されていて、恥ずかしながら初耳だったのですが、静坐というベタな身体操作法を中心に全体を眺めるという立場をきちんと方法化してくれそうです。ちょっと勉強してみようかな。