Under the hazymoon

http://researchmap.jp/nomurahideto/

周天法解釈における伝統と科学

12月の道文研で「周天法解釈における伝統と科学」という題目で報告しました。

  • 精虫が舎利になる?
  • 神仙は電子の身体?
  • 諸天は火星人?

を三題噺として、民国期に内丹の近代化を図った趙避塵と陳攖寧を対象に、道教の性/精をめぐる修行法+αを取り上げ、伍柳派の伝統との比較や国民国家への接続を背景とした議論を行いました。

肉眼に見えないものも実在することを科学が証明してくれたことから科学知識が伝統宗教の迷信化にも近代化にも作用したこと、国民国家の編制による肉体鍛錬の社会的必要性が道教的修養への社会性賦与(小乗→大乗の近代的再現)に繋がったこと、といったような比較的大きな話題を、伝統と近代の密約の場としての「精液を漏らさないようにする」というきわめて具体的な修養法の中で検証していくことで、現代まで続く東アジアオカルト健康ブーム文化圏の祖型の一つとして「仙学」を考えてみるというものでした。

いくつかの問題意識が重なった報告で、プレゼンの点で難があったにもかかわらず、研究会ではいろいろと参考になるコメントをいただき、とても充実したひとときを過ごさせていただきました。楽しかった〜。以下僕なりの理解でまとめてみると、

  • 近代化の問題は、『新青年』が1910年代、『海潮音』が1920年代、『揚善半月刊』が1930年代と儒仏道でタイムラグがある点について要検討。
  • 自慰の忌避については、キリスト教で問題視され、また新カント主義も同じで、これらの影響を考慮すべき。これは近代体育の問題とも関係する。文学研究の方面では研究があるため要参照。郁達夫とか宮沢賢治とか。
  • 趙避塵や陳攖寧の活動がムーブメントとしてどの程度の広がりがあったか要検証。
  • 千鋒派の現在に至る継承関係を要調査。
  • 劉迅さんの『DAOIST MODERN』*1で扱っている問題と重なる点について、ざっと見てみただけでもけっこう資料や問題意識が重なってるので、独自性をどう打ち出すか。思想史的な連続性、日本との比較といった点でがんばるか。今年は霊学研で勝手に読ませてもらおうかな。。。
  • 科学との接合において、伝統中国にも見出せるという立場は柳存仁やニーダムなど現代の研究者にも同じ立場を取る者がある(セビンは否定)ように研究者の歴史観の問題や、また結局疑似科学に固執した失敗例ではという受け取り方をされるという問題もあるため、方法論的な議論を積み重ねる必要性あり。
  • 宇宙人ネタは武田雅哉がすでに扱っているので要参照。ただしこういうおもしろすぎるネタを論じるにあたり、ただおもしろがることで対象を突き放すような見方をしてよいか(もちろん僕にはそのつもりはないけども)。

なお、レジュメを公開しますので、よろしくご批正ください。

*1:[asin:0674033094:detail]