Under the hazymoon

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知識と体験の関係性

修行論での課題の一つに、言語化が難しいため記録されづらい身体の領域にどうアプローチするかという問題があります。僕自身は、八卦掌の学習というフィールドワークを通じて、思想史的な研究へのフィードバックをいろいろと試行錯誤して、その成果があるようなないようなといったところ。
で、夏目さんからこれ参考になるかもよ、と、雑誌『本』の野矢茂樹さんの連載「語りえぬものを語る」のコピーをいただきました。感謝。確かに参考になります。

知識は、行為を通して世界と接触し、交渉する。そしてそれは非概念的・非言語的なものにほかならない。いわば、私はさまざまな知識を携えて、非言語的な体験の海を泳ぐ。うまく泳ぎきれることもあるだろうし、溺れてしまうこともあるだろう。首尾よく泳ぎきれたならば、知識は信頼性を増す。溺れてしまうならば、知識は再点検されねばならない。まさにこのようにして、「語られないものが語られたことを真にする」のである。
(「何が語られたことを真にするのか」、p.6)

もしそのようなかたちで「語られたこと」が不断の選択にさらされているなら、同じように繰り返されることで真として共有された語りの背後には、同じような答えになるような「語られないもの」が選択をせまっていたと考えても、もちろん例外はあるだろうけど蓋然性の問題として、よいのではないでしょうか。
ただしそこで「語られたこと」として注目すべきは、おそらく哲学的な慨念として中心に据えられるような言葉より、その言葉をとりまく環境、「語られないもの」に関するわずかな記述でしょう。それは修行論においてはとりわけ身体をめぐる具体的な表現が対象となるように思います。